(誤)「子ども身体」→(正)「コドモ身体」

ウェブマガジン『REALTOKYO』の編集長・小崎哲哉氏のコラム「Out of Tokyo 191」(7/17付掲載)の中で、少し気になった点があるので、疑問を呈しておく。当該個所は以下の部分。

『 何よりも身体が伸びている。すなわち、体力と技術の極限までを用いて踊りきっている。体格的な劣位を理由に、「踊らない」(踊れない)ダンスに開き直っているダンサーやカンパニーとは、そこが決定的に異なる。相撲にたとえれば、引き技を用いずに専らがっぷりと組む、徹底した横綱相撲だ。「子ども身体」などという戯れ言は、ここでは通用しない。』(Out of Tokyo 191:金森穣の新作/「子ども身体」はもう要らない)

何故、「相撲」に喩えるのか? ダンスは「勝負ごと」「戦い」なのか? しかして、何と戦うのか? 「己に打ち克つ」とか? いかに表現を磨くか、いかに深めるか、いかに作品を面白くするか、そういう努力は、まあ自分との勝負には違いない。そのなかで、もし必要とあらば技術を極めるとか身体を鍛えるだろう(例えばNoismの場合)。しかし、それは目的ではない。手段だ。もちろん、技術と身体能力の優劣を競う場はある。ダンサーの(振付や作品の、ではなく)コンペティションやオーディションだ。そこでは、「踊らない」などという「引き技」(?)など当然、通用しない。たぶん。しかし、表現、パフォーマンスとしてのダンス、舞台芸術としてのダンスはあきらかに「勝負」とは異なる。言うまでもないことだけれど。
近年「踊らない」ダンスを志向するダンサーやカンパニーは日本のみならず世界的に少なからず存在する。そしてそこには、(ダンス的な訓練を積んでおり踊ろうと思えば)「踊れるけど踊らない」ケースと、本当に(ダンス的な訓練を受けておらず普通のダンスは)「踊れない」ケースとがあるだろう。いずれにせよ事実としてはどちらも「踊らない」わけだから、行為と効果は同じと言うことができる。「踊らないダンス」を否定することはアリだ、主義主張として。問題は、彼等が踊らない(ことに「開き直っている」)のは「体格的な劣位」が理由である、と断定することの妥当性だ。やはり、この点に関しては、単なる「憶測」と言わざるを得ないのではなかろうか。しかし、小崎氏がそうした無根拠な憶見を抱くのは何故なのだろうか?