オフィスマウンテン vol.3『ホールドミーおよしお』

(2017年7月)

 

 この芝居、お話がない!にもかかわらず超オモシロい! いや、「夏フェスに行く/行った男たち女たち」あるある話、という、どーでもいい話というか話題、はある。でも、その陳腐な話題=素材を使ってアッと驚く劇的な展開、はない。なのに、一瞬たりとも目が離せない、スリルとサスペンスの1時間なのだった。一体どういうことか?
 「お話しがなくても間がもつ」時間って、つまりこれ「音楽」ってことかも、と思いつきで言ってみる。単に主演の大谷能生がミュージシャンだから、ということもあるけど。では、『ホールドミーおよしお』はいかなる音楽か?
 普通の演劇なら、ある瞬間セリフを話している者がいて、その他の者は黙って聞いている=喋らない(じっとしている)、ということで進行するわけだが、この舞台では、発話中の者以外も常に動いている。なぜか? そう、これが「バンド」の演奏だからだ。ジャズのコンボ。出演者が7人だからセプテットだね。 発話者は順番が回ってきたソロを吹いてるプレイヤーで、その他の俳優はその間バッキングに回ってる、ってことだ。
 しかも、その(動きの)バッキング演奏はソロが引き立つように控え目に、どころか、全員がものすごい勢いでカウンターメロディ繰り出してバトってる。あるいはそいつがリズム・セクションだとしたら4ビートにラテンな2拍3連かます的なポリリズムを仕掛けたり。ソロ=セリフの発話に絡みつく/干渉・介入する/ぼっち・放置プレイする複数のライン/リズム群。そして時に奇跡的に全員の周期が一致して、ユニゾンでブリッジをキメるのもクール。
 さらに、ここではソロを取る時=セリフを発している時も喋りながら身体を動かす。もちろん、それは普通の演劇のように話している内容に素直に連動した所作(復讐を誓う男が拳を握り上げる、とか)ではまったくない。つまりソロにおいては、声+動作という二つの楽器、二つのフレーズの絡み合いが起こっていて、かつそれは同期ではなく齟齬・相反状態で並走している、と。一つの身体に二つの人格的が!的な。
 そしてダメ押しとして、セリフのいたるところに施された「ダジャレ」。ダジャレこそは、どーでもいいとはいえ(笑)いちおう意味の通った文章にもうひとつの(非)意味を付与しセンテンスを二重化する、いわば言語のポリフォニーだ。
 かくして、同一の時間にたちあがる音/イメージ/運動は過剰なまでに多重化され、絡まり、結ばれ、解かれ、ズレゆき、一瞬ごとに姿を変えるグルーヴが形成され続ける。それが『ホールドミーおよしお』というチューンだ。グルーヴの渦に呑まれれつつ、なおもすべての声を聴き取ろうと欲望する時、観客の身体と意識も分割され多重化していくだろう。その引き裂かれ状態のなんともドラッギーなこと......というような感じの音楽批評、楽曲構造のより詳細&高度なやつをどこかで読んだな、あ、マイルス・デイビス論『M/D』だ、著者は菊地成孔と...大谷能生じゃん!

(初出:『ケトル』2017年)