ま、ロートルの独り言だけどね。

Ramay Burtの"Judson Dance Theater Performmative traces "、木村覚くんのブログで部分訳されてますが、完訳が待ちきれないので、辞書と首っぴきで、何とか読了した。いくつか個人的に興味を惹く視点が提示されていた。
まず、いわゆる「分析的ポストモダン(ダンス)」とS.Banesが言うところの、ジャドソン“主流派”というか“ファンダメンタリスト”たち(レイナー、フォルティ、ブラウン、パクストンなど)から外れた傍流、具体的にはフレディ・ハーコとキャロル・シュニーマン、デビット・ゴードンについてページを割き、再評価を行っている。シュニーマンについてはフェミニズム的視点で、そのエロティシズムについて。これは公式的ジャドソニズムが忌避し排除した身体提示である。そして翻ってミニマリズムのマチョイズム(とりわけモリスの、そしてある程度はレイナーも)を遡上にあげられる。またハーコの表出的、ナルシスティック、デコラティブ、「キャンプ」なスタイル。これもレイナーらの目指した(とされる)ものから排除された要素だろう。これもまた、ミニマリズムの意外なヘテロ性(というか意外なホモフォビア?)を浮かび上がらせる。そして、ゴードンのポップな志向、方法しかり。これらは、美術におけるミニマリズムポップアートの異同と同じ問題だろう。あるいは、リヴィング・シアターなどのアヴァンギャルド演劇とジャドソンチャーチの間に横たわる溝とも関連しているだろう。
また、ジャドソンチャーチには(ほとんど)黒人ダンサーがいない、という指摘。彼等の中で唯一フォルティがウッドストックに行き、その体験の感動を公にしているが、そこに歴然と露呈する彼女の能天気さ、ポリティカルなセンスの欠如の指摘。
それから、レイナー自身の逡巡。これは木村君が訳している章でも扱われているが、ヴェトナム戦争のニュース映像を見たときに彼女の身体を直撃したリアルを、レイナーの方法論、マニフェストや創作が完全には裏打ち(獲得)し得ないのではないか、という問題。ごく平たく言ってしまえば、ヴェトナム戦争への有効な対抗となり得ないのではないか、という根本的な問題。同様に、トリシャ・ブラウンは、「ウォーターモーター」においてかつての「アキュムレーション」などの数学的反復の方法に反して(?)そこからこぼれてしまう「完全には制御し切れない身体の誤差」を「何かよろこばしいもの=ダンス」として肯定するに至ったという「その後のなりゆき」の指摘も。
これらは、等しく、60年代にジャドソンチャーチが成し遂げた成果に対して、そこからこぼれてしまったり、意図して排除された部分に、ジャドソン・ムーヴメントの「可能性の中心」を見る可能性、についての示唆といえる。
とりわけ、今この場所のダンスにおいて「ジャドソン的なアプローチ」が急速にせり出して来つつある、という状況があるわけだ。が、それらの大体がストイックに「分析的ポストモダン」的なアプローチを取るのはどういうわけか、というのが僕の疑問というか危惧だったりするのですね。
これまで、我が国ではジャドソン・チャーチについての理解がほとんどなかった。実際『西麻布ダンス教室』でも、非常に軽い扱い、間違った理解をしちゃっているわけです。なにしろ、当時はほとんど映像資料が手元になくて実際のところどんな踊りかわかってなかってんですね、僕も。その時イメージしていたのは、「分析的」派のセオリー通りのそのまた形骸したスタイルで踊られたもの、ってことです、振り返って言えば。そのかわりに、ピナ・バウシュの「フツーの身体のフツーの仕草によるダンス」の開く可能性についてそれなりの記述をした。あとから考えたら、それはまさにジャドソンの遺産ですよ。どうしても自慢しているようになっちゃうけど、その『西麻布』のピナ・バウシュ評価のラインでの「踊らない系ダンス」というのが、日本の場合ここ10年の流れだと思うのだ。あ、もちろんもう一つ、黒沢美香も大きなファクターですね。
ところが、ここ最近の新たに始まった「ジャドソン」的なダンスは、結果として見えるもの=作品としては、直前までの先行者たちとは微妙に(もしかしたら決定的に)違うように感じる。実際問題、それらは上に書いた「「分析的」派のセオリー通りのそのまた形骸したスタイル」の反復なのではないか、という危惧を抱かせる。要するに必然性(リアリティ)が見えない、あるいは「それ、楽しいの?」というか、要するに「退屈(なだけ?)」だったりするのだ。これまでの流れでは、そこに「いきいきとした身体」「微細なノイズに満ちた身体」が目されていたことは間違いない。つまり、いかにして「グルーヴィ」な身体をダンスに取り戻すか、があったはずだ。結果としてか目的としてかは問わず。少なくとも僕の見るところではそう。
たしかに僕のバウシュ評価、あるいは黒沢美香評価の根拠は、そのアプローチだからこそ「普通のダンスよりはるかにグルーヴィ」なダンスが出現する、ということなので、そもそものジャドソン「分析的」派の公式なセオリーの目的とはズレる部分が半分はある。しかし、実際のダンス、レイナーの「トリオA」だって、ブラウンの70年代前半の作品(「リーニング・デュエッツ」とか「スパニッシュ・ダンス」とか!)だって、グルーヴあるわけですよ。このことは大きい。ラムゼイ氏の本を読みながらずっと考えていたのは「ダンス」と「非ダンス」というかつまりは「ダンスになれないもの」を隔てるものは何か?という根本問題だった。その差は「等身大(human scale)と伸張された身体」や「日常動作と劇的所作」「ありのままの身体提示とイリュージョニズム」等々の差とは別の次元の差なのだろうか? だが、それを(結果として)ネグレクトしたままで、オルタナティブをやろうとしてきたから、エロティシズムやポップさらに言えば「異なる者」を「ノイズ」として排除することになっていたという事実が後々露呈するのではないか。自分がメインストリームに対してオルタナティブであるためにノイズを捨てるという皮肉。もしかしたら捨てられたノイズのなかにこそ「ダンス」があったかもしれない、という皮肉。どうなんだろう、神村さん、大橋くん?