『家と出来事 1971-2006年の会話』

松田正隆+遠藤幹大+三上亮『家と出来事 1971-2006年の会話』

 1971年に建てられ、何組かの家族が入れ替わり暮らした後、10年前から空き家になっている二階建て住宅。そのリビングやダイニング、台所や廊下や縁側で、日々の生活の中で交わされたかもしれないさまざまな会話や日常音を、その場所に身を置いて「聴く」サウンドインスタレーション

 いわば「家」全体が「サラウンド再生機器」になっているわけだが、人間にとって「家」と何か?という考察、そこに住まう人たちの「記憶庫」、そこで生起した出来事-記憶が記録されたメディアとしての「家」、といったメタファーを実体化したものと言える。

 もちろん再生-上演される音・声は新たに(ただしその場所で)録音されたものであり、会話は「フィクション/フェイク」だ。その意味では、これはサイトスペシフィックな「演劇」と言える 。ただし、俳優が一人も出て来ない演劇。

 とは言えそこに「物語」と呼べるようなものはなく、35年の間のある日ある時間の「場所の記憶」の断片が次々と脈絡なく明滅する。父と息子、母と娘、妻と夫の他愛のない会話、ときには妻と浮気相手の男の密会、二階のほうからは誰かが夢にうなされ意味不明の叫び声が、ステレオからはニール・ヤング、テレビは東北新幹線開通のニュースや深夜映画を映し出す。

 繰り返すが、ここには声の主、生身の人間が登場しない。 にもかかわらず、確かにそこには出来事が生起し、人物が立ち上がっていた。むしろそこにいる私が透明になって覗き見=盗み聞きしている気分になったり。おそらく、通常の演劇においては単なる「舞台セット」に過ぎない部屋、家具調度、窓の外の庭がここでは俳優のように生身の存在として現前しているのだ。録音されたものとはいえ声・物音もまた空気の振動として物理的に発せられ、その瞬間そこにいる私の耳に届く(幻聴とは異なる)「現実」なのだ。

 じつはこの展示と同時期に別の場所で、作者のうち二人、松田と遠藤が所属する「マレビトの会」の“演劇”『福島を上演する』公演があったのだが、そちらは舞台セットも小道具もなし(食卓も食器もない食事のシーン、エアでバレーボールの練習etc.)、ダンスを踊るシーンにいたっては、見えないラジカセから鳴っている筈の音楽が聴こえない!なのにみんなで揃って踊りまくる、というこれまた不可思議なものであった。

 そう、この演劇上演とインスタレーションは裏・表の関係にあって、つまり『福島~』にないもの「家具調度=モノ、音」が『家と出来事』にはあり、反対に『福島~』にあるもの「身体」は『家と出来事』には欠けていたわけだ。どちらも普通の演劇上演の構成要素から何かを差し引いている。そのことによって演劇の「条件」を問うているのはその通りだが、そればかりかかえって「リアル」の強度が増すことに。

 演劇体験における視覚・聴覚は視聴覚という1セットでもなく、見える/聞こえる、ゆえに在る、見えない/聞こえない、ゆえに(居)ない、という単純なものではない、ということだ。

(2016年『ケトル』所収)

 

さいたまトリエンナーレ2016

松田正隆+遠藤幹大+三上亮『家と出来事 1971-2006年の会話』

於 旧部長公舎

2016年9月24日〜12月11日

 

saitamatriennale.jp