岡田利規『God Bless Baseball』舞台評

アレゴリーの身体」

 「国民的スポーツ=野球を題材に日韓両国の歴史と文化の背後に存在するアメリカを浮かび上がらせる」という宣伝コピー通りの作品、そしてその目論見は見事に成功していたと思う。これは間違いない。
 次々と繰り出されるアレゴリー( 野球=アメリカ=父親/日韓=兄弟/イチローの背番号51=合衆国51番目の州アメリカの属国/野球=アメリカの「光と影」=夢と希望を与えつつ服従・隷属を要求/開いたパラソル状のオブジェ=野球の神様=日韓を規定する「核の傘」=アメリカ等々)。それらはすべて解釈の余地を残すことのない、反語的に読まれる恐れの決してない寓意で、 非常に明快だが、ある意味「図式」的でちょっと窮屈、と思う。事前に戯曲を読んだ時にはそう感じた(白状すると、アレゴリーとかメタファーは好きじゃない)。
 だが、上演の実際においては、逆にそれが稀に見る効力を発揮していた。 考えてみれば、そもそも「自分じゃない誰かを演じる」という「演劇」の大前提は、アレゴリーの「あるものを別の何かで表す」「A=B(Aの代替としてB)」という構造と似ている、というか同じではないか。そう、この舞台で行なわれていたことは、アレゴリーを「遊び道具」にして「プレイ=演戯」するということ。
 まず、わざわざ日本人俳優が韓国人の役を演じる、韓国人が日本人役を、イチローではなくイチローのモノマネ芸人を演じる、という「ごっこ遊び」。「自分じゃない誰かを演じる」ことは「自分じゃないもの=他者」のことを想像することだ(観客にとっても)。こうして、日・韓という「似ているけど違う」者を、「野球=アメリカを共有する他者」のことを想像することが可能となるだろう。
 さらに、偽のイチロー(を演じる舞踏家・捩子ぴじん)が「奥義」を伝授すると称して突然始まるワークショップ。指先から始まり手、腕、胴体と、身体の部位を意識から切り離して「自分じゃなくする」エクササイズ。並んで立った俳優たちが見る間にブトーもどき、チェルフィッチュ的身体になっていく!面白い! ところが、やがて「首から下が自分じゃない」、遂には「頭が自分じゃない」状態に達するにいたって、このシーンが主体性を奪われ、そのこと自体も忘れている我々のアレゴリーであることに気付き、戦慄するのだ。
 あるいは、女子2人のバッティング練習の最中、ナレーションによって回想される現代韓国史。1997年、韓国は経済危機に陥った。IMFは支援の条件として酷薄な改革案を強要。リストラによる失業...というナレーションを聞きながら、ひたすら空振りし続け、加速度が増しついには暴走する女子(ウィ・ソンヒ)のアクション=ダンスの痛切な強度。
 つまりこうだ。まずアレゴリカルな「図式」があり、そのくっきりとした枠線で囲まれた空白、そこに投入される「身体」の放つノイズが、翻ってアレゴリーをリアルなものにし、 上演全体が、単なる図式・記号ではない、いわば「アレゴリーの身体」となるのだ。
 同様に、高嶺格の美術、中空の「開いた傘」も、終盤、岡田利規(らしき人物を演じるイ・ユンジ)が傘=父に向かって少年時代の父=野球へのわだかまりを吐露する長台詞のなか、ゆっくりと溶解し、ぼたぼたと肉塊のように床に落ちていく。このグロテスクな崩壊のプロセスが観客の身体にもたらす生(ナマ)な感触によって、美術もまた単なる寓意的な意匠ではない「身体」、「アクター」として作用するのだった。

 

(『美術手帖』2016年2月号 初出)