岡田利規『God Bless Baseball』舞台評

アレゴリーの身体」

 「国民的スポーツ=野球を題材に日韓両国の歴史と文化の背後に存在するアメリカを浮かび上がらせる」という宣伝コピー通りの作品、そしてその目論見は見事に成功していたと思う。これは間違いない。
 次々と繰り出されるアレゴリー( 野球=アメリカ=父親/日韓=兄弟/イチローの背番号51=合衆国51番目の州アメリカの属国/野球=アメリカの「光と影」=夢と希望を与えつつ服従・隷属を要求/開いたパラソル状のオブジェ=野球の神様=日韓を規定する「核の傘」=アメリカ等々)。それらはすべて解釈の余地を残すことのない、反語的に読まれる恐れの決してない寓意で、 非常に明快だが、ある意味「図式」的でちょっと窮屈、と思う。事前に戯曲を読んだ時にはそう感じた(白状すると、アレゴリーとかメタファーは好きじゃない)。
 だが、上演の実際においては、逆にそれが稀に見る効力を発揮していた。 考えてみれば、そもそも「自分じゃない誰かを演じる」という「演劇」の大前提は、アレゴリーの「あるものを別の何かで表す」「A=B(Aの代替としてB)」という構造と似ている、というか同じではないか。そう、この舞台で行なわれていたことは、アレゴリーを「遊び道具」にして「プレイ=演戯」するということ。
 まず、わざわざ日本人俳優が韓国人の役を演じる、韓国人が日本人役を、イチローではなくイチローのモノマネ芸人を演じる、という「ごっこ遊び」。「自分じゃない誰かを演じる」ことは「自分じゃないもの=他者」のことを想像することだ(観客にとっても)。こうして、日・韓という「似ているけど違う」者を、「野球=アメリカを共有する他者」のことを想像することが可能となるだろう。
 さらに、偽のイチロー(を演じる舞踏家・捩子ぴじん)が「奥義」を伝授すると称して突然始まるワークショップ。指先から始まり手、腕、胴体と、身体の部位を意識から切り離して「自分じゃなくする」エクササイズ。並んで立った俳優たちが見る間にブトーもどき、チェルフィッチュ的身体になっていく!面白い! ところが、やがて「首から下が自分じゃない」、遂には「頭が自分じゃない」状態に達するにいたって、このシーンが主体性を奪われ、そのこと自体も忘れている我々のアレゴリーであることに気付き、戦慄するのだ。
 あるいは、女子2人のバッティング練習の最中、ナレーションによって回想される現代韓国史。1997年、韓国は経済危機に陥った。IMFは支援の条件として酷薄な改革案を強要。リストラによる失業...というナレーションを聞きながら、ひたすら空振りし続け、加速度が増しついには暴走する女子(ウィ・ソンヒ)のアクション=ダンスの痛切な強度。
 つまりこうだ。まずアレゴリカルな「図式」があり、そのくっきりとした枠線で囲まれた空白、そこに投入される「身体」の放つノイズが、翻ってアレゴリーをリアルなものにし、 上演全体が、単なる図式・記号ではない、いわば「アレゴリーの身体」となるのだ。
 同様に、高嶺格の美術、中空の「開いた傘」も、終盤、岡田利規(らしき人物を演じるイ・ユンジ)が傘=父に向かって少年時代の父=野球へのわだかまりを吐露する長台詞のなか、ゆっくりと溶解し、ぼたぼたと肉塊のように床に落ちていく。このグロテスクな崩壊のプロセスが観客の身体にもたらす生(ナマ)な感触によって、美術もまた単なる寓意的な意匠ではない「身体」、「アクター」として作用するのだった。

 

(『美術手帖』2016年2月号 初出)

『音で観るダンスのワークインプログレス』

 「音で観るダンス」。つまり、目の不自由な人のためのダンス観賞「音声ガイド」の作成を目的とした研究プロジェクトのワークインプログレス、経過発表会。
 近年、視覚障害者のための劇映画やドラマの音声ガイドは普及しつつあるというが、セリフを補足するかたちで、今話しているのは誰か? そこは何処か、昼か夜か、天気はどうか、向き合って話しているのか、並んでか? といった情報を提供するそれとは異なり、ダンスの場合、ストーリーもなく、食器を取るために「右手を伸ばす」とか、小銭を拾うために「腰を屈める」といった目的動作でもない動きの連なりを、どのように知らせることが出来るのか? そして、我々が普段ダンスを見ることから得ている「感興」に似たものを提供することが出来るのか?
 発表会は、捩子ぴじん振付のソロダンス作品が作者本人によって踊られ、レシーバーで音声ガイドを聞く、という趣向。音声ガイドは作者=踊り手自身が付けたもの、研究会参加者たちが考えたもの、能楽師の安田登によるものの3種類が用意された。しかし、これが同じダンスのことなのかと思うほどまったく違う!あるシークエンスを各々どう説明したか? 少し見てみよう。
捩子「尻穴から頭頂へウエーヴ。案山子になって起き上がる。風に吹かれる。股割り。地球の中心へ全体重。爪先立ちからのガクガク、脳梗塞のジェームスブラウン」。
研究会「左を向き、両手を横に開く。広げた両足で地面を打つ。体を震わせながら少しづつ舞台中央へ」。
安田「や!痛みがまた暴れだした。四方八方に鋭角なトゲが出る。凶暴な金平糖のような鋭いトゲ。腹の中が攪拌される」。
 捩子のガイドは「僕はこれをこんなふうなものとして作り踊っています」といういわば「著者解題」。研究会バージョンは、極力客観的な記述を心がけており、ダンサーの空間上の位置、移動の方向、手足の位置情報を正確・精緻に伝えようとする。能の「謡」ふうに発声される安田登バージョン(本人の声)は、「私は部屋である、私の中になにやら異物が迷い込んだらしい。」という一言から始まる。つまり、ダンサーを体内の異物と見立て、ダンスを客体として対象化しつつも私がそれを体感する、という主観=客観というべきか。
 つまりこの試みは(障害者福祉の試みであると同時に)、ダンスを記述する方法の問題、さらに言えばそもそも「ダンスを見る」とは何か、何を見ているということなのか、という問いが提起されているのだ。 僕自身が普段ダンスをどう見ているのか? あらためて考えさせられた。それが退屈な時は、動きの逐一が平板で「何かあれこれ忙しく動いてるなー」としか感じられない。逆に、ダンスが面白い時は、さまざまな情報が一気に飛んできて、複層的に受け止めている。まさにこの日の音声ガイド3つを同時に聴くように、多様なレイヤーの重なりを一個の身体に見ているのだ。ダンスという行為/体験の豊穣さ。そして、聴覚で、というより言葉で伝えることの難しさもまた。

公演データ:『音で観るダンスのワークインプログレス』2017年9月16日 KAAT大スタジオ
 http://www.kaat.jp/d/ws916

初出:『ケトル』(太田出版)2017年10月

イデビンアン・クルー『関係者デラックス』

 いやー、面白かった。で、何と言っても佐伯新である。佐伯を起用して使いこなしたというか最大限の魅力を引き出した井手茂太もあっぱれだが、佐伯も半端じゃなく、汗だくになっての渾身の踊りっ振りを見せてくれた。ま、もとから汗っかきだが。
 佐伯新の“魅力”―カッコ悪さ、情けなさ、ダメダメ感―それはそもそもイデビアン・クルーのダンスの魅力を表す形容でもある。ただし、これまでのイデビアンが、おそらく中心的ダンサー=中村達也の身体性が基準となって、ボーっとした感じというかヘロヘロ感・脱力感が身上だったとすれば、佐伯の投入によって、あせりまくる人の「キョドり」とか無意味なハイテンションといった別種の「ダメさ」が加味されて、2倍おいしいことになっていた。
 この2種の「ダメ」が作品のプロットにもうまく利用されている。すなわち、まったくもって平然として淡々と「デタラメ」を繰り出す者たちと、それに一々驚き、困惑のあまりおかしなリアクションをしてしまう男(佐伯)という構図。あ、つまりこれは彼の見ている夢なんだな。
 夢の中、高い天井にシャンデリアが吊られたほの暗い部屋で、俺(佐伯)はグレーの背広にネクタイ姿で、和装の婦人、詰襟の少年2人、赤いギンガムチェックのワンピースやら吊りスカートの少女3匹と一緒に並ん立っていた。それは家族のよう。ってことは、俺、父親? 詰襟の息子の一人がいきなりコケる。正座してたわけでもないのに足が痺れてよう立たんらしい。ひとしきり足萎えのダンスをして隣の兄弟にすがって元の位置に立つ。何がうれしいのかニヤリ。何じゃコイツは。突然鳩時計が鳴ると、今度は3姉妹が音に合わせて首を前に突き出す。うわっ、気色悪いガキ。何とも奇っ怪だ。逐一、訳が分からないのである。しかるに、この者たちは皆まったく平然としてそれらの出鱈目を行っているではないか。だが、気がつけば猿股姿、脱いだ靴下を両手に持って踊り出す俺、ああ何と愉快な事よ!
 「不条理(ナンセンス)」とは結局のところ「夢の文法」なのだ。夢の中では、理路整然としたことを述べているように思われるが、実は意味不明の謎の単語の羅列である、というような。
 かつてのイデビアンは、日常のよくあるシチュエーションをまず前提として、それが何かのはずみでズレる、という手順を踏んでいた。ところが、近年どんどん「不条理」度が増していき、今やのっけから既にしてわけわかんねー状況になっている。にもかかわらず観客がついていけるのは今回、登場人物に「キャラ」設定が付与されたからではないか。ああこれは家族の風景スケッチ的なものなんだなと安心させておいて思う存分デタラメを繰り広げる、そのための「だまし餌」。その際、ことのほか大きな意味を持つのは「衣裳」だ。
 デビュー当時の全員が黒の稽古着の上下に白ブリーフを始め、全員が黒の喪服(お葬式)、Tシャツにパンツというカジュアルで統一(フリムクト)といったように、これまでのイデビアンの衣裳は、いわば「ユニフォーム」的であった(レオタードの機能と同様な)のに対して、今回は服装によって各々が役柄として把握され、観る者の視線が投影しやすくなったように見せて、逆に行為の抽象(無意味)度は高まっている。さらに、ここには佐伯一家とは別にチアガールやら警備員といったコスプレな役柄も存在する。ブルマーはいてバレーボール抱えた女は、だからどう見てもバレーの選手だが、じゃあなぜそこにバレー選手が存在するのかは全く意味不明で、そういう怖さというのもある。
 そしてもちろん「動き」。これまで井手は一貫して、石ころに躓いてコケそうになっておっとっとする身体のグルーヴを、機敏にさっと石をよけたりするようなつまりダンス的とされるしなやかな身のこなしに対峙させ、(もう一つの)ダンスとして提示してきたわけだが、今回は、一旦ダンス=運動として抽象化された日常動作を再び「行為」にさし戻しているように見える。ただし行為の原因は消去して。
 例えば冒頭シーン、和装の婦人が立ち寝状態でこっくりこっくりしている。足を揃えてぴょんと前へ一歩。間をおいてまたこっくりして、ぴょん。こっくり、ぴょん。何じゃソレ?と思うだろう。これをレオタード着た「ダンサー」の運動として抽象的に提示すれば、直立して体の軸を左右に10°揺らす。6番ポジションで小さくジャンプ。以下8回反復。とか記述可能だろう。そして、「立ち寝」も「足を揃えてぴょん」も日常動作として見れば理解可能だ。しかし、何故、奥さんがそれをそこで行うのかが、分からないのよ!しかも、何故「立ち寝」→「ぴょん」なのか !?
今日び、どんなおかしな動きも、それを「ダンス」として行えば、ああダンスだなと了解されかねないが、このいわば「演劇を偽装した場」でしかも「石ころ」なしでおっとっとするなら、「挙動不審」という、ダンス一般にも日常にも回収されない不穏な地位を獲得することになる。そして、それはあまりの訳分からなさに目が離せない、夢に出てきてうなされそう、要するにすこぶるダンシーなのであった。
 (ところで、ご婦人の「こっくり&ぴょん」はついに、舞台中央まできて止まる。それを見ていた宝塚の男装の麗人が、婦人の足下のすぐ先の床にある印から着地点までの距離を測り「あとこれだけの距離ですよ」というように示す。また最初に戻ってこっくり&ぴょん。測量。こんどは行き過ぎた。で、また振り出し。チア・ガールが登場。無言のままポンポンを振って婦人を応援。しかし一体何の競技なのか?婦人が一歩ぴょん。と、その後ろの袖から詰襟の学生服に膝丈のズボンの少年が付いてきてぴょん。次いで、黄色いツインを着た婦人やら、ブルマー姿のバレーの選手などがぞろぞろ出てきて、ぴょんぴょん跳びレースが繰り広げられる。奇っ怪だ。訳が分からない。しかし、人物は皆まったく平然としてそれらの出鱈目を行っているのだった。)

上演データ:2004年12月3日〜5日 於 新宿パークタワーホール
初出:『バッカス』(論創社)2号. 2005年6月刊

関田育子『人々の短編の集』

 不思議なものを観た。関田育子の演劇。そこでは、ささいな出来事・他愛のない会話・見知った風景が描かれる。ただし、その「描き方」はきわめて特異だ。
 例えば。舞台上には、右腕の運動を反復する男と、両腕を何かに掴まるよう前へゆるく伸ばし足を交互に上に上げ下げする女。当日パンフを見ると『自転車に乗れない女』とある。それで、おそらく自転車にまたがっているのだと察っせられる。乗れない自転車の練習、か。男のほうはピッチングの練習をしているように見える。ここはどこかの「原っぱ」か。
 舞台の上には本当に何もない。セット、書割り、大道具そして小道具も。つまり、物語上そこがどこなのか、人物は何をしているのかを示すための「環境」が一切省かれた空間で物語が演じられる、ということだ。 実際は、二人の会話が始まると間もなく状況は(想像した通りだ、あるいは、あ、そういうことか、と)判明する。原っぱに偶然居合せた二人、女(40過ぎの主婦)の自転車のチェーンがはずれたのを男(高校生?)が直してやるのをきっかけに、自転車の後ろを支えて練習に付き合う、そこでなんとはなしに会話が紡がれる。のだけれど、具体物を欠いた抽象空間に普通の日常光景、という取り合わせの「変さ」は最後まで完全には解消されない。
 しかし、奇妙なことはそれにとどまらない。広い原っぱだからこそピッチングや自転車の練習をしているはずなのだが、広場よりはかなり狭い舞台とはいえ、二人の俳優はぴったり隣に横並びに立ってピッチングと自転車乗りをしている! わざわざ? 現実にはありえない位置取りだが「舞台上の現実」としてはそうなのだ。この演劇では、あってしかるべき物(本来あるはずの物)がない、つまり「省略」だけではなく、「距離」「パース」も圧縮・変形されているのだ。
 いわば「遠近法絵画」に対する例えば「キュビスム絵画」のような? それが一つの世界の描法であることは確かだ。だが、それによって奇妙なことが起こる。ぴったり真横に立っているので、後ろ向きでピッチングする少年の振りかぶった右腕が、横向きで自転車にまたがる女の結わえた髪のポニーテールを掠める!
  もちろん「物語上の実際」は原っぱの手前から投げたボールが向こうのほうにいる女の髪の毛を掠めた、ということだろう。あるいは少年と女の間に生起しつつあるある種の感情の「心理」描写、と考えることも出来るかもしれない。だが、たとえそうであったとしても、観客席にいる私は、ほとんど「事故」に遭遇するかのような衝撃を受けた。髪の毛が揺れるさまに見惚れながらその瞬間、「距離の圧縮」というそれまでは観客の中にもかろうじて成立していた「お約束」を突き破って、今、劇場(の舞台上)で「現実」に起こったこと、を観客席から目撃した、という生々しい、いや艶かしい感覚に襲われるのだった。それは関田のこの特異な方法でなければ起こらない。演劇はこんなことも出来るのだと改めて知らされたのだった。
(初出:『ケトル』2018年4月号)

上演:
2018年3月16日〜18日
於 スタジオ空洞

チョイ・カファイ 「ノーション:ダンス・フィクション」

 国際演劇祭「F/T11」のプログラムとして上演された『ノーション:ダンス・フィクション』。だが、なぜか舞台上では神経に電気的刺激を与えて筋肉を動かす、という怪しげなアイディアのプレゼンテーションが展開されるのだった。 学会発表よろしくドクター・チョイはまず数世紀にわたるこのテーマに関する研究を概観。中にはカエルの足に電流流す懐かしの理科実験も。 通販番組でよく見る電気的な刺激で腹筋を鍛える!とか脂肪燃焼!等々をうたうアタッチメントの類いをつい思い出す私。 最新の成果として、日本人アーティスト真鍋大度の、顔じゅうに貼られたパッチに電流を流しさまざまな表情を作るという作品が紹介され、この方法を全身に拡張すれば、あらゆる筋肉を電気的刺激でコントロール出来る、と。
 彼はここからさらに視点を変え、モーション・キャプチャーの要領で、20世紀ダンスの重要なコレオグラフィを(映像をもとにした実演によって)トレースし、筋肉の動きを電流のデータに変換し記憶させ保存しておけば、データを呼び出しアタッチメントを装着すればいつでも誰でも自動的に名作ダンスを踊ることが可能になる!という画期的ダンスアーカイブ構想をぶち上げる。アタッチメントを装着した女性ダンサーが登場、プロジェクションされる有名なダンス作品、たとえばピナ・バウシュ「カフェ・ミュラー」や土方巽「夏の嵐」を、映像とシンクした(と称する)データ信号の神経への直接入力によって(!)そっくりに踊(らされ)る、というデモンストレーションが展開する。 このあたりで、どうやらこのプレゼン全体が真っ赤な嘘=フィクションであることがわかってくる。危うく信じるところだった(笑)。
 思うに、「自動ダンス生成機」なるものを仮構することによってここでは「ダンスとは何か」という根源的な問いが提起されている。ピナ・バウシュの深い精神性に裏打ちされた(と評される)、きわめてエモーショナル(にみえる)なダンスも、実は( 精神活動の介在しない?)「筋肉運動」に過ぎないのではないか、という危険な問いだ。
 けれど、このSF的なアイディアに騙されて、電気的刺激によって勝手に動いてしまう身体は、何を獲得するか? と問うてみたとしたらどうか。この、己の制御から逃れる“不随意”な身体とは、本来的な意味で「ダンス」の謂いかもしれない。グルーヴィな音楽が聞こえれば、無意識のうちに肩が揺れる、やがてその振動は全身に波及し、気がつけば立ち上がって踊っている私。ダンスの生起とはこうしたものだ。そう、踊るとはほとんど踊らされることに等しい。 電流も音楽も同じくダンスのトリガーだ。あれ、俺もしかして踊ってる? でもなんか気持ちいいんですけど、えへへへっ(ドーパミン出まくり笑い)。 それらによって発生した身体の状態がいかに主体や自意識から自由であるのか、そのことがダンスとして吟味される質なのだろう。そう思うと、エレクトリック「自動ダンス生成機」、試してみたい(もし実現したら)!
(初出:「ケトル」2012年)

危口統之「はだかのオオカミ」

 イソップの「オオカミ少年」とアンデルセンはだかの王様」。「ウソ」を扱った童話二つを合体し、いわば“でっち上げ”たのが、危口統之作・演出『はだかのオオカミ』だ。
 「これは馬鹿には見えない服」だという仕立屋に騙された王様と家臣たちが、見えてるフリをせざるを得なくなり、お披露目パレードで子供たちに笑われる。この「王様はハダカだ!」事件を契機に、怒った民衆の(SEALsめいたコールが連呼される)「デモ」が起こり、大臣たちの「謝罪会見」(国民的アイドルグループの先日のあれを用いた)が開かれるなど、劇は我々の今をなぞり始める。
 ついに革命により共和制が樹立、見えない服の仕立屋=ウソつきが大統領に。退位した王様は(昭和天皇人間宣言みたいな感じの書き置きを残し)失踪、森の中で「オオカミ少年」に出会う。少年は誰も自分のウソを信じなくなったので、自らオオカミとなって町へ逆襲しようと毛皮で着ぐるみを作っていた。王様は戯れに着ぐるみを纏い「オオカミが来たぞ!ガウー!」そこへ王を探しに来た家臣が登場、「オオカミ」を目の当たりしてズドンと一発。ラスト、「見えない王様」のお召し変えを(マイムで)行う者たちの、幻想の(?)王宮の日常風景で幕。
 かくして原作の「だから、ウソはいけません」という道徳的「教訓」は吹き飛び、「もしかして世の中ウソで回っている?」というアイロニカル(ドイヒー)な「真理」が浮かびあがる。
 しかしこれ、高校の学内公演、つまり「教育の一環」として実施されたというのがスゴい。学校教育に演劇を、というと得てして「コミュ力」アップ!とか、一致団結!みたいな話になりがちだが、選挙権年齢の引き下げで「有権者」教育が求められる今、これほど有益な授業はない。つまり「社会のなりたち」を考える、今僕たちが生きるここはどういう社会か?を考える、そういう劇であったと言える。
 さらに、「演劇」を学ぶ途上の生徒たちが、今この劇に参加出来たことは幸運だったと思う。ともすると、「リアル」を表現するツールだ的な錯覚に陥りがちだけど、 そもそも演劇って「ウソをつくこと」だった筈だよね? その点、きぐち先生の演出・演技指導のポイントはおそらく、いかにも「本当」らしく、ではなく歴然と「お芝居してます」で、というスタンスで(舞台セットもむき出しの段ボールのハリボテ)、「高校演劇」のトレンドがどうなってるのか知らないが、今どきここまで「学芸会」な演劇はないよ! だが、結果フツーのリアリズム演技には出せない、夢中で「ごっこ」に興じる者の生き生きした身体が起ちあがっていた。「ウソっこ」「マネっこ」で遊ぶ、ウソと知りつつ「あえて」遊ぶ、演劇の「初心」を思い出させることになったことだろう。僕もそう。

(初出:『ケトル』2006年5月号)


「はだかのオオカミ」
福島県立いわき総合高等学校 総合科第13期生 アトリエ公演)
2016年1月30日〜31日@いわき総合高等学校

作・演出:危口統之

出演:
飯島 楓花 茨木 彩華 小野 遥香 上遠野 真凛 阪本りょう 設楽 萌々 
鈴木 鳴海 東海林 莉香 平子 桃花 但野 鮎香 長南 茉生 粒來 みのり 
富澤 ひより 中村 美里 七海 舞香 根本 優奈 根本 有希菜 飛知和 有沙 
吉田 菜々子 若松 怜愛(五十音順)

演出助手:辻村優子
協力:佐藤恵 岡村滝尾
いわき総合高校:斎藤夏菜子 佐原輝明 谷代克明

ロロ『校舎、ナイトクルージング』

(「ケトル」2016年2月号に掲載)

 学校に幽霊が出るらしい、というので高校生男女3人が真夜中の教室に忍び込んで心霊ツアーを敢行。 そこで遭遇したのは「お化け」!と思いきや謎の不登校女子で、彼女は毎夜教室のあちこちに盗聴用レコーダーを仕掛け、前日のぶんを回収していたのだった.....。
 胸キュンな設定と物語、魅力的なキャラクターとそれを生き生きと演じる俳優、何かもがキラキラしている。しかも、そんなライトでキュートな見かけの下にはコアな演劇的企みが。完璧にハートを持っていかれた。
 『校舎、ナイトクルージング』は、高校を舞台とした連ドラならぬ連続演劇「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」、その第2話。演劇で「続きモノ」というのは、ありそうでなかったアプローチだと思う。もちろん単体でも十分楽しめるように作られているが、これ、前回の上演で描かれたある一日の、その日の夜の話なのだ。ただし新キャラと入れ替わりで前回の登場人物の半分は出てこない。いや、変わった形で登場する、というべきか。
 件の不登校女子が昼間の教室の声・物音を録音(フィールドレコーディング!)するのは、真夜中の教室でそれを再生して、クラスメートたちの学校生活を想像するためだ。あたかも透明になった自分がその時この場所にいるかのように。つまり、その想像のなかの彼女は昼間の教室の「幽霊」!
 そして観客にとっては、舞台上でその音・声が再生される時、今日の昼間の教室での出来事=前回の上演が「再生」される、ということだ。とりわけ前回を観た者には、今この瞬間二つの上演=時間が二重写しになって起ち上がっている、と感覚されるのだ。(前回登場した)見えない登場人物たちの笑い声やざわめき。それもまた「幽霊」たちだ。
 さて、「結局、お化けの話じゃないのね」と思ってたら、出ました、お化け。しかも「見えちゃう系」のお化け(って何じゃそれw)。その子は昔この「2年6組」の同じ教室に通っていた高校生の幽霊だという。ここでもまた、現在と過去が二重に並存している。しかも、お化けちゃんと仲のよかった楠木くんは今の2年6組の同じ机にもいる!? そういえばあいつが話してるとこみたことないよね、幽霊みたいな存在....って言われてる楠木。
 考えてみれば、いつもいるのに存在感の薄い子も、学校へ来ない不登校の子も、他の生徒から見れば幽霊みたいなもので、逆に「見えちゃう幽霊」は普通の女子高生と「見た目」は変わらない。その両者の交換可能性。
 こうして散りばめられたモチーフが仕掛けるのは、一つの場所の二つの時間そして実在/非実在のレイヤーの重ね合わせ、いわばパラレル・ワールドのアクロバティックな重ね合わせだ。
 けれど、今ではない時間を想像する(させる)、ここにはいないものを見(せ)る、というのはじつは「演劇」の最も根源的な仕事ではなかったか。その意味では極めて真っ当なザ・演劇。だがしかし、それよりも何よりも「早く続きが見たい!」状態の私なのだった。