「子供の国のダンス」便り(5) オトナは「運動」がキライ!?

(初出:『舞台芸術』9号、2005年 「子供の国のダンス」便り は『舞台芸術』誌に連載のダンス時評。1〜4はココに掲載。)

S:前回は「時評」をお休みさせて頂き、木村覚さんに「コドモ身体」について色々とご意見を伺いました。おかげ様で「コドモ身体」論も少し大人に、じゃなかった成長‥‥しちゃうと大人ってことか(笑)、まあいいや。で、どうなの、最近のダンスは?
K:まずは、何と言っても「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」[1]問題でしょう。
S:落ちちゃったね、チェルフィッチュ。4月の岸田戯曲賞受賞に続いて二冠制覇したら痛快だったのになー。アンタ、某誌で競馬予想みたいなふざけたことしてたでしょう、チェルフィッチュ=大穴、とかって。
K:いや、だけど実際に蓋が開いて、8組の作品を比べてみれば、なおかつ本番の出来も考慮に入れてみれば、ブッチギリで一等なのはチェルフィッチュ[2]だって、歴然としてたよ。
S:で、結果としては、キミの予想では「ダークホース」だった人が受賞したわけだ。
K:隅地茉歩さん。これは唯一、未見の作品だったんで、データ不足ということで「ダークホース」としたわけだけど、本番のパフォーマンスもよくわかりませんでした。っていうか「見えない!」んだよ。すごく小さな動きで、ひょっとしたら繊細なダンスが展開されているのかもしれないけど、照明が極度に暗くて見えない。見えないものは評価不可能じゃん。俺は審査員の列のすぐ後ろの席だったんだよ。一体どういうことなの?
S:まあ、リコーダーの生演奏によるバロック音楽とか、その暗い照明にぼんやりと浮かび上がる大きなテーブルに並んで座った男と女、とか「雰囲気」はあるんだよな。でも、動きのディテールは見えなかったね。だから、結局その「雰囲気」と雰囲気作り=「演出」に対しての評価ってことになる。
K:でも、それは明らかに「振付」賞としておかしい!審査員長だってことあるごとに「これは作品賞じゃない、あくまでも振付を見る賞なんだ」って公言してたわけだから。そうそう、本選会の翌日に一次選考でもれた中から「でもちょっと捨てがたい」という人を審査員に見せるショーイングがあったのね。で、ちょうど僕の隣に座ってたイギリス人審査員の女性が、ほとんどダンス見てないで、ずっとメモを取ってんだよ。ちらっと見て(1秒)、すぐメモにかかる(9秒)。およそ90%の時間は下を向いてるわけ。これじゃあ、そこで何が起こったか、そこで何が持続していたか、いいダンス(振付)かどうか、わかるわけない。バカじゃないの? で、アワードの審査の時はどうであったか? メモ取ってないで、ちゃんと見ていたか? 誰か目撃者がいたら、お知らせください。つまり、あれだね、そいつはダンスを「運動」としてではなく、「絵」「図」「フォルム」「記号」としてしか見ていないわけだよ。それって、僕が『デザイン主義批判』とか『スティル/ムーヴィ』とか[3]、さんざん書いてきた問題なんだけどね。
S:でも、そういう見方をしている人はいまだに多そうだな。普段公演に行ってもこっちは当然ダンスしか見てないから気づかないわけだけど、結構ダンス批評家で客席でメモってる人いるみたいだよ。○○さんとか、さ。ま、仮にもダンスの専門家がそうだったっていう事実を、しかも目の当たりにしちゃったんで、ショックだったんでしょ、わかるよ。まあ、落ち込むよな、やっぱ。
K:うーん。今回のチェルフィッチュ評価に関しても、その動きが(既成の)ダンス的なボキャブラリーによるものではないから、ダンスに見えない、ダンスとは認められない、というジャンルをめぐる議論という話じゃなくて、結局、日頃からダンスを「運動」として見てないから、それがいかに精緻に「振付」られているか「見えない」っていう情けない話なのかも。
S:ヘタすると「テキトーに(即興で)ダラダラと身体を揺すってるだけじゃないか」とかね。そりゃあ、作品を一言で言うとすれば「ダラダラと身体を揺すっている」ってことになるけど、それはほとんどの時間よそ見しててもわかることで、ダラダラする身体の様態を追っていくことなど絶対しないんだろうな。まあ、実際の上演を見ないでテキストだけで賞を出した岸田賞ってのもアレだけど、我々の一般的な「演劇の見方」も身体をネグってる面がある。つまり、目の前に俳優の身体があるにもかかわらず、セリフ&ストーリー=意味内容だけを「聴き取る」という受容の仕方で事足りてしまう、と。
K:「肉体は哀し」ってね‥違うか(笑)。「ダメ身体」、「コドモ身体」に対する批判っていうのも、「振付」の良し悪し以前の問題なんだな。「運動」が見えてないんだから。単に、パッと見の「だらしなさ」、そして、もちろん「だらしなさ」という身体(存在?)の在り方に対する嫌悪・フォビアに過ぎないのかもしれない。「ハゲ・デブ・チビ、キモーい」「ホームレス、臭い、寄るな、っていうかオマエ死ね、害虫駆除してやる、ボコボコ」っていうような。ヤダねー。まあ、逆に、そういうオマエは結局ただの「ダメ専」じゃないか、やーいこの変態野郎!って言われかねないわけだけど。
S:とにかく、感性の問題にしちゃうとマズい、と。そういえば「人類は運動というものが嫌いなのだ」って、蓮実重彦も言ってたな。
K:『スポーツ批評宣言』[4]!けだし「名言」だね。蓮実先生は、映画をフィルムの「運動」として見ないで、テーマやストーリーや演技で見る、そういう見方とずっと闘ってこられたわけで、このことはダンスにおいてもまったく当てはまる問題でしょう。
S:トヨタの話に戻るけど、今回は他にも結構いい作品あったよね。
K:そうだよ。アワードの謳い文句「年齢、キャリア、ジャンルを問わず」というのが、今回ほど文字通りになったのは初めてじゃないかな。何で今年はそれが実現できたかといえば、単純にそういう人も応募するようになったからで、つまり、アートとか演劇とか他のジャンルの作家にとっても、ダンスというものが自分の表現のメディア、ツールとして意識にのぼるようになってきたってことかも。
S:それなのに、「これはダンスじゃない」とか「もう十分キャリアもあることだし、いまさら」っていうんじゃね。
K:黒沢美香とか岡田智代とかね。でも、実際のところは「年齢・キャリア問題」というより、やっぱり、ダンスを「運動」として見ないという問題だったと思うな。例えば、岡田さんのこの作品『るびぃ』を「メモりながらの片手間」で見たら「椅子を引きずりながらゆっくり歩き回る。椅子の上に上り、足元が不安定な状態でバランスとりながら揺れる。バランスが崩れて落ちる。片手に持った椅子が円を描くように自分を中心にしてゆっくり回る」って、ただこれだけってことになっちゃう。だけど、ほんとうはそこには、持続のなかの微細な移り変わり、グルーヴがしっかり存在している。
S:基本的にはいわゆる「ミニマリズム」のダンスってことだけど、なおかつそこに「情感」もある。なんて言うか「時間を見る」いや、彼女とともに我々が「時間を味わう」、そんな作品だったね。
K:だからさー、今どきのダンス専門家なんてのは、世の中には「ミニマリズム」というものが存在するということすら忘れちゃってるんじゃないか、すでに。その上、微細な「運動」も見ない、見えないってんじゃ、どうしようもないね。僕は最近はあんまり「至芸」とか、それを見抜く「見巧者」とか、眼の精度にかかわることは、あまり言いたくないんだけど、ちょっとヒド過ぎるんじゃないか、ダンスを見るプロの水準がそんなだとしたら。
S:それはもしかしたら、最近の欧米のダンス・シーンの状況っていうか、全体的な水準(の低下?)が関係してるのかもね。あんまり最近情報が入ってこないけど、なんとなく停滞ぎみのような感じはするよね。ひところと比べて。
K:こないだ、金森穣がプロデュースして、海外で活躍する日本人ダンサーを集めたガラ・コンサートがあったね[5]。で、まあジリ・キリアンとかオハッド・ナハリンとか、あとそれ系統の若い振付家の作品を踊ってけたど、ほんとにつまんなかったなー。まあ、ダンサーの水準が、結局バレエが基本のああいうものを踊るにはちょっと、っていう面もあって、でも皆さんネザーランド・ダンスシアターとか、それなりのカンパニーで活躍されてるわけで、あれが今の欧米のコンテンポラリー・ダンサーの水準(以上)ってことでしょう。俺なんかの目から見ると、やっぱ「ヘタ」だなーと、悪いけど。で、とにかく作品自体も面白くない。特に、若い振付家のものは、クリシェの使い回しというか、デジャヴュ感が強かった。平均してああいう状況だとしたら、完全に停滞してると言わざるをないな。ヨーロッパは。唯一、安藤洋子と新しいフォーサイスカンパニーのメンバーが踊ったの[6]だけは、面白かった。
S:ああ、あれは最高にくだらなかったなー。他の作品がどれもテイストが同じで、シックで硬質な、要するに「暗くて気取った」ものだった中で、バカ明るくハジけてた。しかも、ダンスとして新しい事もちゃんとやってるし。
K:構成・演出のクレジットが安藤洋子と日野晃となってるわけだけど、今年はじめに武道家の日野晃がフォーサイス・カンパニーに招かれて、日野メソッドによるコンタクトを教えて来たんだよね。ちょうど、フランクフルトに同行取材した押切伸一さんが書いた本[7]が出たところだけど。
S:もともと、フォーサイスは「インプロヴィゼーション・テクノロジー」ってことで、複数の身体が即興でダンスをジェネレートしていく探求をずっとやってたわけだけど、それは空間と他のダンサーの身体に「幾何学的」に自分の身体を関係付けていくという方法だった。日野さんの場合は、「feel&conect 」と言うように相手の身体と力を感じる、そのために身体的にもそして意識の上でも相手との「つながり」を維持し続ける、というもの。フォーサイスのは「視る→頭の中で高速演算→動く」、それに対して日野理論は「感じる→動く」となるので、データのロスやタイム・ラグ、処理結果の間違い(失敗)の確率が飛躍的に低くなるんじゃないかな。
K:世界を認識するに「視覚」だけに依存していたのが「知覚すべて」つまり「身体」で把握するようなる、ってことかな。さっきのダンスにおける「運動」を見れないって話も、それは「運動=ダンス」を視覚的にしか把握しようとしないからで、「運動=ダンス」は体感的な把握、「運動=ダンス」は見る者もとともに生きることでしか把握できない、ってことなんだね。
S:この方法のスゴさは、ダンサーどうしが実際につながっていない場合、離れて向かい合っている時にこそ発揮されるんですよ。対戦相手と「見合う」わけ。で、この場合はどうしても視覚情報に頼り勝ちになると思うんだけど、普段の稽古で常に相手と繋がっているでしょ、その時の身体の意識を延長させることによって、ほとんど身体的に相手を感じることが出来るようになるんじゃないか。と思うんだよ。
K:ああ、それ安藤作品にも出てきたね。いや、見合っている2人の間の空間に、ちゃんと線が見えたよ。あれは、すごいスリリングだったな。
S:とにかく、フォーサイス・カンパニーは今後継続して日野さんのワークショップを受けていくらしいから、その成果が今後出てくるだろう。すると、またしてもフォーサイスの独走状態が続くってことになるね。それ以外はみんなますます保守化していく、と。
K:それもこれも「人類は運動が嫌い」だから、ってか?
S:そういえば日野さんは元はドラマーだったんだよね。フリー・ジャズ。伝説の阿部薫のトリオ。
K:デタラメ、純粋運動の人なんだな、そもそもが。
S:そういえば、「ローザス」の、こないだのマイルスのはどう?ジャズの歴史的名盤、電子マイルスの第一弾『ビッチェズ・ブリュー』(69)で踊る!ってヤツ[8]。
K:うーん、微妙。これまでのローザスと比べたらちょっとはグルーヴ出てきたから、そういう意味では評価してもいいんだけど、逆に言えば、マイルスの音があんだけグルーヴィなのに、このダンスのグルーヴのなさはどういうこと?っていうのが本当のところだな。だから、インテリはダメなんだよ、って(笑)。もう、よせいばいいのに、調子こいて今度はコルトレーン『至上の愛』で踊るだと!
S:何で、ケースマイケルはジャズ・シリーズいきなり始めたのかね?
K:要するに「ジャズ=インプロヴィゼーション」ってことじゃないの。『ビッチェズ・ブリュー』に際しても、フランクフルト・バレエにいたダンサーに「インプロヴィゼーション・テクノロジー」教えてもらったりしたようだけど、遅いって(笑)。フォーサイスのほうがもうどんどん先に進もうとしている時にさ。あと、ファンキー・ダンスも習ったって。でも、実際、作品でそれ系をもっぱら踊ってたのはその教えた先生本人だったよ。「本気さ」っていうか「リスペクト」が感じられないね。
S:つまみ食い。まあ、何となくハイアートによるサブカル搾取っぽいな。文化的コロニアリズム
K:そこいくと、マリー・シュイナールは違うね。あの人は奇特な人ですよ。彼女もまた、欧米のダンス環境から出発して、かつては現代美術(パフォーマンス)的あるいはミニマリズム的なアプローチを模索したりもしたんだけど、世界中を放浪するなかで出会ったヨガやインド舞踊、バリ舞踊への傾倒によって、彼女独自のダンスを形成していったんだよね。
S:なんか、ルース・セント=デニス[9]みたいだな。文化人類学者の目線というより、リスペクトする者の態度ってことね。
K:しかも、それがただのコピーには終っていないわけ。こないだの来日公演[10]でやった『ショパンによる24の前奏曲』なんか、音楽とダンスが奇妙にミスマッチなマッチングでさ。
だいたい、「前奏曲集」って、ショパンの曲としても、イマイチ地味だし、あんまり好きじゃないんだよ、僕。子供の頃、ピアノ教室で弾かされたけど。だから、これ使ってこんなグルーヴィなダンスが可能とは思わなかった。
S:クラシックの名曲で同名のダンス作品を作る、というのは(モダニズムとしての)20世紀ダンスの「伝統」ではあるよね。ジョージ・バランシンからキリアン、ローザス(!)にいたるまでの。
K:たしかに。でも通常そこでは振付家による音楽の構造分析・注釈・批評が開陳されるわけでさ。ところがシュイナールの場合は、身震いし、身をよじり、ヘッド・バンキングし、拳を振りかざす‥‥、ショパンでだよ!
S:まあ、彼女の好きなアジアの舞踊の身体って、痙攣とか突っ張らかりとか捩りとか、そういう身体だわな。
K:でも、見え方としてはさ、我々がフツーの「ダンス・ミュージック」を聴いて踊り出す時のように、音楽に対して自然に身体が反応して勝手に動き始める、そんな感じなんだよ。それは何らかの「システム」に則って操作されることで成立する運動というより、音楽に共振する身体からこぼれ出す「震え」であり、身体のあらゆる部分が喜びにわなわなと震えている、そういうダンスなんだよ。だから、それは一瞬一瞬姿を変えるわけだけど、それが、しばしば「動物」の仕草に見える。前肢立ちしたネコやイヌの手つきとか、擦り合わされる首と肩、とか。
S:ま、そういうところにまたアジアの舞踊の身体が透けて見えるわけだけどね、ミミクリーとか。
K:だからー、音楽はショパンなんだってば!そういう奇怪なダンスがショパンの欧風浪漫な音楽にシンクロしてるんだよ。で、見てるこっちの身体もノリノリになっちゃうんだぜ、それってスゴくない?
S:たしかに、最近の欧米のコンテンポラリー・ダンスとしては珍しい作家であることはたしかだね。しかも、今引っ張りだこ状態らしいじゃない。フェスティバルとかでも。
K:でも、結局は「色モノ」って扱いなんじゃないの。どうしたって「主流」にはなり得ないでしょう。たまには珍味もいいかな、っていうさ(笑)。何であいつらはヤミツキにならないかなー。こんな旨いもん。今回上演されたもう一つの『コラール』なんか、クライマックスシーンでシュイナール流のケチャが展開されるんだけど、「ハッハッ、ハッハッ」というかけ声=呼気音がいつしかハイになった者のあの「ヘラヘラ笑い」に似てくるんだよ。で、見ているこっちも、ヘラヘラがこみ上げてくる。ってことは、ドーパミン出てるわけよ、マジで。あれ?そう言えば、最近も似たような感覚を体験したような。
あ、思い出した。黒田育世の振付を踊った金森穣とNoism。
S:ああ、こないだの。『ラストパイ』って、そんな作品だったの?
K:金森穣が、ごく単純な振りの繰り返しを延々40分、立ち位置キープで切れ目なく踊り続ける。金森君に人が期待するであろう「技巧を駆使した華麗なダンス」ではなく、持久走のようなストイック、というか要するに「地味」なダンスを踊らせるわけ。
S:ベジャールの「ボレロ」みたいな感じ?
K:いやいや、「ボレロ」なんてたかだか17分でしょ。こっちは40分だよ。体力的にも40分は尋常じゃないよ。金森君の判断で自分の体力ギリギリ=40分ということが決定したらしい。案の定、ネットの某スレにも「穣サマにあんなことさせるなんて、ヒド過ぎます!」的な書き込みされてたよ(笑)。この作品はもともと4月に初演された黒田のソロ『モニカモニカ』をベースにしていて、シンプルないくつかのフレーズの組み合わせで、とにかく自分を「踊り倒す」ということだけをコンセプトにしてるわけ。育世はこないだ岡山で90分も踊ったらしい。当然倒れるまで。まあ、「コドモ」はとんでもないこと考えつくよ、ホントに。
S:黒田育世なら「ああ、アイツはな」って感じだけど、欧米仕込みの正統派エリートダンサー金森を「体力を使い果たすまで、ぶっ倒れる(寸前)まで」追い込んだわけだ。天下の金森にこのタスクを課した黒田もアッパレ(してやったり!)だが、一瞬たりとも手を抜かず最後まで踊り切った金森もさすが、って感じ?
K:いやー、マジですごくカッコ良かったよ、穣クン。と言っても「スポ根」な感動なんかじゃなくてね。踊れば踊るほどに彼の身体は「マッチョ」から遠ざかっていく、中性的というより「フェミニン」な姿に変貌していった。このダンスは存在=身体の誇示ではなく消尽することが目指されている。くっきりと一つ一つのフォルムを刻み込むのではなく、一瞬一瞬の閃く残像が持続する「運動」(!)の流れのなかに融けていく。そういう身体が金森穣から出てきたんだよ、画期的じゃない?
S:金森以外のダンサーたちはどんなだったの?
K:あ、肝心なこと言い忘れてた。舞台下手のスポットの中でひとり黙々と踊る金森がいる、で、そことは一切交わる事なく、Noisimのダンサーたちが配されてるんだけど、そっちはそっちで、いわば「レイヴでハイになったバカ者たち」が奇声を上げつつ完璧にナンセンスな反復遊びにハマっていたりする(このあたりが、さっきのシュイナールの話とつながるんだけどさ)。これは、金森の没入する身体の「無為」と表裏の関係にある。この2つの無為はどちらもしつこい「反復」によって成立しているしね。つまり、金森的な没入状態というのもまた、レイヴのダンスにしばしば見られるじゃない。一人孤独に黙々と踊る、でもすごくエンジョイしてる、という。視られることなど意識する暇もなく、ただただ「踊る喜び」それ自体であるダンス。だから、この舞台にいたのは全員が「踊るバカ」「踊りバカ」ってことだよ。
S:バカは伝染する。で、それを見ている者たちもまたバカになり、客席で静かに熱く「踊っていた」のだった、って感じスか?
K:まさに、その通り!で、ドーパミンも出た、と。それはともかく、この公演はある意味「事件」だったんじゃないかな。金森と彼のカンパニ−Noismが、コンドルズの近藤良平とか黒田育世の振付で踊ったということがね。
S:なるほどね。その公演では三人の振付家に作品を委嘱したんだよね。近藤、黒田と、何故かアレシオ・シルベストリ[11」。
K:アレシオ君の作品だけ、バリバリの「ヨーロッパ、アート、スノビズム」でしたね、やはりというべきか。フォーサイス(90年代)、しかもパチもんの。
S:ははは。粗悪なコピー商品ね。見ないでも目に浮かぶよ。
K:金森作品のほうがはるかに品質もいいし、だいいちオリジナルだよ。まあ、カンパニーとしては、こういう系のもの出来ますよっていうのはひとつ売りとしてあるんだろうけどね。サンプルとして。とにかく、今回の眼目は「金森穣、日本のコンポラと出会う」ってことだから。
 で、近藤良平はさすがに手堅い職人仕事で、カンパニー・メンバー=「優等生」の「ハズし」「脱力」に成功していた。みんな、照れくさそうに、ちょっとぎこちなく(っていうのも変だけど)、でも明らかに楽しんで「コドモ身体」してたよ。でも、とにかく圧巻だったのは黒田育世の「ラストパイ」だったな。
S:そもそも、欧州で活躍した後帰国し、新潟の公立劇場りゅーとぴあの芸術監督に就任した金森穣こそは、90年代日本で果たされなかった欧米の正統的ダンスのホンモノの才能で、彼の登場によって、日本のダンス地図が大きく塗り替えられる可能性も出てきたわけだよね。ニブロール以降の「コドモ身体」「ダメ身体」から、国際標準に再度シフトするかもしれない、っていう。まあ、そうしたい「(抵抗)勢力」は潜在的に存在するわけだから。「コドモ身体」は恥ずかしい、っていう(笑)。
K:ところが、今、この場所ではとにもかくにも「コドモ身体」がだんだんと幅を利かせるようになってきている。金森が日本で活動していくということは、好むと好まざるにかかわらず、それらとの交通が不可避なわけですよ。とすれば、金森の変化がさらに新しい可能性をもたらすことになるのではないか、と。
S:フフフ。何か「いたいけなコドモに悪いこと教える大人」みたいな話だね。
K:でも、じつはその逆だけどね。せっかく立派な青年になって故郷に帰ってきたのに、ちっとも大人になれてない「元先輩」とかに付き合わされて、「バカ」やらされる羽目に的な(笑)。


[1]「トヨタ・コレオグラフィー・アワード2005」は一次選考によりノミネートされ、最終審査会「ネクステージ」(2005年7月9、10日 世田谷パブリックシアター)の舞台で作品を上演した。ファイナリストは以下の8名。
新舗美加(ほうほう堂)、岩渕多喜子(ダンスカンパニー・ルーデンス)、宇都宮智代ほか(yammy dance)岡田利規チェルフィッチュ)、岡田智代、黒沢美香、鈴木ユキオ(金魚×10)、隅地茉歩(ダンス・セレノグラフィカ)。
審査の結果、「次代を担う振付家」賞は隅地茉歩に決定した。なお、今年度の審査員は、天児牛大(審査員長)、バル・ボーン、塩谷陽子、鴻英良、ディアンヌ・ブッシュ。
[2]チェルフィッチュの上演作品『クーラー』は、2004年7月「We Love Dance フェスティヴァル」の委嘱により作られ、京都アートコンプレックスで初演。この連載でも取り上げている。「子供の国のダンス」便り──正しい「だらしなさ」について(『舞台芸術』7号)また、下記ページにも掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[3]『デザイン主義批判(序)』(初出:「ダンスの空間デザイン」(原題)『PT』7号 1999年4月 れんが書房)、『スティル/ムーヴィ』(2001年10月、ローマ第3大学におけるシンポジウム『Return to Hijikata』にて発表)。いずれも、筆者HP内、下記ULRに掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[4] 蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(青土社 2004)
[5]金森穣 no-mad-ic project 2[-festival] 8月10日〜13日 めぐろパーシモンホール
[6]『3A』構成・演出:安藤洋子、日野晃 振付・出演:アンデル・ザバラ、シィリル・バルディ。
[7]日野晃・押切伸一ウィリアム・フォーサイス、日野晃に出会う』(白水社 2005)
[8]ローザス『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』彩の国さいたま芸術劇場 4月
[9]ルース・セント・デニス Ruth St.Denis (1877-1968) イサドラ・ダンカンと並ぶアメリカン・モダン・ダンスの先駆者。彼女も世界中を公演旅行し、必ずその地のダンスを一つ以上覚えてレパートリーに加えていった。というより、彼女のダンスじたい、インド舞踊を始めとした様々なオリエンタル・ダンスのエッセンスによって形作られた、と言える。
[10]カンパニー・マリー・シュイナール日本公演 3月 シアター・コクーン。上演作品『ショパンによる24の前奏曲』『コラール〜讃歌〜』
[11]Noism05 「Triple Bill」  三軒茶屋世田谷パブリックシアター
上演作品はアレッシオ・シルヴェストリン 『DOOR INDOOR』、黒田育世 『ラストパイ』、近藤良平 『犬的人生』

(初出:『舞台芸術』9号、2005年)