「 トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979 」

 たとえば、2人が手をつないで扇状に斜めって歩行する(ちっとも前に進んでないよ!)、とか、ロープに吊られてビルの屋上から壁を直立歩行で降りてくる、あるいは部屋の四面の壁を歩き回る(F・アステア!)、あるいは、横向きで等間隔に並んだ6人が順次ステップを踏み始め、後ろの人に押されて前進する(アコーディオンの蛇腹ね)……、DVD『トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979』に収められた彼女の初期作品は、冗談なのか?という「ダンス」ばかり。いや、それは間違いなく真面目な「メディウム・スペシフィックの探求(モダニズムのお約束)」なのだけれど、今どきのダンスには稀な「爽快感」「すがすがしさ」を感じさせる。「笑い」はその「開放感」により起こるのだろう、禅の「公案」のように。
 教科書的なおさらいをすれば、60年代、ブラウンらの参加した「ジャドソン・ダンスシアター」において、ダンスのファンダメンタルな問い直しがあった。まず、「抽象化」。ダンスとは、意味や感情を「表現」するものではなく、純粋な運動と素材としての身体である(そこには当然ケージ/カニングハムの影響がある)。そしてさらに、「選ばれた身体」による「ヴィルトージティ(超絶技巧)」の否定。それはつまり、「リベラル」な行為と「デモクラティック」な身体を!ということだろう。(※ 参考資料として、ジャドソンの盟友イヴォンヌ・レイナーによる、自らのダンスの方法を整理した「Torio Aの分析」からのチャートを挙げておこう→ http://d.hatena.ne.jp/sakuraikeisuke/20060501
 ところが、今日の評価は概ね、それらは既存のダンスに対する「反対のための反対」のためだけの「やせがまん」「スノビズム」で、「無味乾燥」な「実験」であった、だから結局、袋小路に陥って雲散霧消、その後ようやく正しいダンスの歴史が再開され「コンテンポラリーダンス」が花開きました、めでたし、ということになる。しかしこれは、現在時から見たいわば「コンテンポラリーダンス史観」と言うべき誤読で、現にこうしてDVD化されたブラウンの初期作品を見れば、そこには彼らが発見した「ふつうの身体、ささいな行為の見せる生き生きとした表情」が、正しく「ダンス」と呼ぶにふさわしいものであることが分かる。初期の代表作『アキュムレーション(蓄積)』(71)は、ヒッチハイカーのように親指を立てて手首を振るという小さな動作から始まり、反復の度に一個づつ動きと動かす部位が付け加えられ(蓄積!)、ダンスがさざ波のように全身に波及していく「こんなに簡単なことからこんなに複雑繊細なダンスが!? 」というソロ。あるいは『ウォーター・モーター』(78)。これもごく簡単な日常動作をサンプリング、よくシャッフルしてつなげる又は同時に行う、というソロ作品だが、その中には「よろける」とか、(何か忘れ物を思い出した時のように)「急に動作を中断して方向転換する」、(沸騰した薬缶を触った時のように「あちちち」と)「手先を振りながら同時に足を後ろに跳ね上げる」(靴先の泥を地面で拭き取るように)、といった文脈から切り取られているゆえに不可思議な仕草が多々含まれており、先が読めないスリリングなシークエンスが展開する。さらに映像の後半はそれをそのままスロー再生しただけのものだが、結果、採取された元の日常行為の原型=意味が完全に消え去り、かわりに、隠れていた奇妙なラインが浮かび上がるのだ。
 なるほど今の欧米のダンスシーンにおいて、こうした試みの継承は(フォーサイスを例外として)ほとんど見当たらない。が、一方で妙に既視感というか親しみを抱くのは、それが我々が最近目にする「日本のコンテンポラリーダンス」のあれこれ(ほうほう堂とか身体表現サークルあるいはボクデス…)に似ているからだ。ダンスの歴史や教育もないこの場所で、それゆえ既成の(スタンダードな)ダンス技術やメソッドを持たず、おのおのが勝手に「捏造」するということは、当然「ダンスの条件」を問う行為、「身体というメディアの抵抗」を確かめる作業にならざるを得ないのだから。
 さて、トリシャ・ブラウンの今は? 最近作『グルーヴ&カウンター・ムーヴ』(2000)では、かつての様々な原理的な試みの「蓄積」がすべて投入されているのが見て取れる。軽いバウンド&スキップ、気まぐれかつ唐突な方向転換=フェイント、身体のパーツ単位のねじり、ひねり等々。だが、それらの屈託のない身体・些細なことどもが、あたかも偶然に出会い、交差することで、驚くほどスリリングな光景が展開されるのだ。デイヴ・ダグラスのグルーヴィなスコアに乗って、全く力みのないリラックスした身体が、鼻歌まじりにチキンサンドを作るかのように踊る! それはすこぶるグルーヴィ(題名通りの「グルーヴィな対旋律」)であり、エレガントですらある。
(初出 2006年「 美術手帖」5月号)