【祝・タニノクロウ岸田戯曲賞受賞】 演劇の「純粋芸術化」万歳!——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

タニノクロウ氏岸田賞受賞を祝して2008年に「Revue House」2号に書いた文章を期間限定で掲載する。


演劇の「純粋芸術化」万歳!
——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

 マンションの一室、文字通り「目と鼻の先」に設えられた舞台。幕が開くと舞台はグリム童話にでも出てきそうな18世紀ドイツの田舎風の家の一室だ。白い漆喰の壁、左右にドア、背面に窓。そして何故か2本の「樹」が一本は床から生え、もう一本は天井を突き破って下へ伸びている。しかし、このステージ、マンションの床から1メートルの高さに設営されていて、天井はもちろんマンションの天井なので、人が立って演じることができるギリギリの高さである。やがてこれまたドイツの農婦のような黒っぽい衣装の女2人が登場し、日常スケッチのようなものが描かれる。だが、その「日常」もまた奇妙なもので、どうやら女は部屋に生えた「樹」から採れる白い「樹液」を主食としており、舞台ではその樹液を採取し、意味の(判ら)ない会話を交わしながら食事を取り、あるいは上手側のほうの樹が乾いてしまい液が出なくなっていることを案じたり、というように劇は展開することなく進行していく。後半、しばしの暗転後、明かりがつくとそれまでの舞台「床下」があらわになるのだが、そこには学生服を来た男が仰向けになっている。そればかりか、彼が横たわっている床下の空間はきわめて精巧に作られた「ジオラマ」になっており、青い空と雲、山並みや川、湖、集落、そしてその回りを蒸気機関車が走っている。つまり、「絵」としてはガリバーの世界だ。学生服の男は、受験勉強中のごとき寝言を口にするので、彼はやはり受験生であることがはっきりする。目を覚ました受験生は、うたたね中に自分が知らない間に小人国のガリバーになっていることに“ちょっとだけ”驚く。しかし彼の関心事はほぼ受験に占められているようで、身動きも取れず、参考書も机もないにもかかわらず、なお勉強を続行しようとする。が、集中せんとする受験生の常で、女の子のことを妄想しはじめる。股間のあたりがどうもムズムズする、と見れば彼の股間は床上の「樹」と繋がっている。ミツコ!と女の子(どうやら妹らしい)の名前を叫びながら果てる受験生。ということは、「樹液」は即ち彼の...。この後、床上の世界と床下が繋がり、男は上に上がってきて受験勉強を続けようとし、女たちは彼に夜食(「樹液」)を供するなどしてもてなす場面が描かれたりするが、最後まで結局何だかよくわからないまま進行するので、以下割愛。

 私はこの舞台にただただ「魅了」された。いわば完全に「放置プレイ」のような状況に置かれながら、まったくもって意味不明の物語に、女のカジモドみたいな出っ歯(の作り物)や白い汁をすする音のえげつなさ、足を引きずるようにノロノロと歩き回る二人の女の愚鈍な「造作」に、とりわけ床下の精緻な「ジオラマ」に、驚きとともに魅了されてしまったのだ。
 これはタニノクロウという男の偏執的な創造物である。ただひたすら、彼が夢見る、欲望する事物を実際に実体化したもの、彼の頭の中にある妄想を物質化したものが並べられている。因果、整合性、論理性、バランスを欠いた寄せ集めの部分から成る奇形的な創造物。郵便屋シュバルの城、ババリアの狂王ルートヴィヒの城、あるいはミニチュアのドールハウスの類い。
 だがしかし、本当に驚くべきことは、これが「演劇」として提示されているということかもしれない。今どきこれほどまでに我々の現実(社会)と切れた、全くもって無意味、無価値な舞台は希有である。にもかかわらず、いやそれゆえに、私は奇妙な解放感を感じるのだ。作品のバッド・テイストに反して、これは本当に清々しい。
 ところで「演劇」って何だ? 世界の鏡/公共(討議、コミュニケーション)空間/祝祭空間(ページェント)/慰安空間(エンタテインメント)等々? ギリシャ劇以来の(?)演劇の歴史をごく表面的に眺めてみても、どうも「演劇」というものは、社会の要請に答えることで成立するもののようだ。平たく言えば、社会の中にあって、社会的役割を果たすことを常に求められるという宿命?
 ところが、残念なことにペニノの『苛々する大人の絵本』という「演劇」(?)は、はっきりと何の役にも立たない。心身の疲れをひと時緩和してくれるサプリメントですらない。劇評家も、いつものように何か意義深いこと、気の利いたことを語ろうにも「とっかかり」を掴めない、なぜなら、そこには「現実」の反映が見当たらないからだ(註1)、ざまー見ろ、だ。
 ならば、ペニノは本来「演劇」とは呼べないということになるのだろうか?
 少し視点を変えよう。「演劇」を「形式」として見るならば、それは「俳優」の「演技」によって「出来事」が「物語」られる、すなわち「上演」というかたちの何か、ということになるだろうか。『苛々する大人の絵本』も、この形式を外れるものではない。しかし、「通常」の演劇はこの形式に則り、作者の意図する何らかの目的(さらには、前述したようなあれこれの「演劇が要請されているとされる役割」)を達成するために、演技の質を吟味し、物語の展開に腐心するだろう。そうしないと、例えば目の前で展開される悲恋のドラマが「嘘臭い」ものになったり(そんな理由で死ぬとかありえなさ過ぎー!)、この子は「コギャルのユミ」のはずなのにコギャル「らしさ」を保持出来ない(いつの時代の女学生?)、という事態に陥るからだ。いわゆる「表象代理、再現前 representation」というのは、要はそういうことだ。
 ところが、ペニノの「演技」はというと、今どきちょっとどうかというくらい「臭い芝居」だし、プロットは「支離滅裂」「デタラメ」である。にもかかわらず舞台が成立しているということは一体? 
 先に書いたように、ここで行われていることはタニノの頭の中のイメージ(妄想)の「実体化」である。しかるに、妄想(想像)の「実体化(actualisation)」は「表象代理、再現前 representation」 とは違うものなのではないか。representationは劇の外側にある(我々の生きる世界の)「現実」を参照し模倣するが、ペニノの場合、参照すべきものが元から「イメージ」であり、それは「現実」に存在しない(参照すべき「オリジナル」が実在しない)のだ。だから必然的に、その「演技」や「物語」には「らしく」ということの必要がないわけだ。
 だが、逆に、観る者に「それがそうある」がままに受け取られる必要がある。そこに何らかの「寓意」や「解釈」を読み込む隙間ができるやいないや、その世界は外部の「現実」に通底する何か(外部=現実の単なる反映)に失墜してしまう。だからこそ、プロットはデタラメでなければいけないのだし、俳優は愚鈍に振舞うのだ。
 さらに決定的な要素はその空間造形の特異な在り方だ。通常の演劇の舞台美術(セノグラフィー)は、やはりこれまた「現実」の代理物であり、リアルさ(本物らしさ)や象徴としての適確さなどが求められる。いっぽうペニノの、マンションの一室の中に作られた「天井が極端に低い部屋」や、横たわる男のまわりにこしらえられた「ジオラマ」といった造形は、タニノの頭の中にある通りに実体化された「実物」なのである。つまり、ジオラマジオラマであり、そこに走る汽車は「ジオラマの中を走る“本物の”鉄道模型」に他ならない。そう、「舞台美術」と、たとえばこの「ジオラマ」との違いはrepresentation とactualisation と同じような意味で異なっているのだ(註2)。舞台美術はたとえ書割であろうとも、縮尺比は(見かけ上)実寸でなければ用をなさない。ところがジオラマは現実(どこかにある自然の景観)と1:1の対応関係を持たない(註3)。
 あるいは、他のペニノ作品にしばしば出演する「小さい人」マメ山田タニノクロウにとって彼の存在は、いわば、脳内の妄想イメージの「先取りされた実体化」なのだろう。タニノ的には、自分の想像物(であるはずのものが)が既に存在していた!という感じだろうか。私はずいぶん前に「世界一小さいマジシャン・マメ山田」と名乗る彼のマジックを見たことがある。それがまた、5回のうち4回は失敗する、という何ともなシロモノであった。「小さな人が失敗するばかりの手品を見せられる」というのは、既にして「ペニノ」的映像ではないか。(註4)
 かくして、「演技」や俳優の「存在」、舞台の空間「造形」、これら全てが、通常の演劇作品の成り立ち方とは異なり、「現実」が投影された世界、「現実」の再現(再現前 representation)ではなく、実在しないイメージの「実体化 actalisation」を図るために、「現実」をシャットアウトするように機能することによって成立しているのが『苛々する大人の絵本』ということになる。そしてそこでは、通常の演劇の「現実→虚構(上演=再現)」に対して「妄想(非現実)→実体化(実演!)」というように、前後関係のベクトルが逆になっている。本末転倒、倒立した「演劇」?
うーむ。
おずおずと「芸術」という言葉を口にしてみる。「芸術」? そう「芸術」だな。外部に参照項を一切もたないで成立している、それこそ「純粋芸術」ってことじゃないか(笑)。OK、「ペニノは芸術」ってことで決まり!「マスターピース」と言うにはそうとう歪んでいるが。今日この場所の演劇、ペニノの立ち位置であろう「小劇場演劇」では、「この場所の<リアル>を切り取れ」「ニート問題を扱え」「9.11以後の世界情勢を読み込め」とか「実験的であれ」「新奇であれ」「来る10年代を先取りせよ」等々、目白押しの注文いや「圧力」に応答するのに汲々としているかに見える(「圧力」が一番低いように見える「エンタメ」系にしても、「癒して」「泣かせろ」とか「ウォームハートな“ちょっといい話”にしてね」とか言いやがる)。とにもかくにも「役に立て」という圧力。何とも五月蝿いことよ(5)。形而下のことは家来に任せておけ、「現実 リアル」? そんなものは犬にでも食わせろ、芸術万歳! (註5)

(初出:『Revue House』第2号 2008年)


【脚註】

(1)このわけのわからない「物語」を、例えば精神分析的に「解釈」することは出来るだろうが、それをしたところで、そこから得られるものは、思春期の受験生の性欲やプレッシャーといった「しょーもない」ことでしかないだろう。

(2)ジオラマはたしかにもともとは「現実」(自然の景観)を参照先としていたとも言えるが、この舞台に設置されたジオラマは「レディ・メイド」と考えるべきではないだろうか。元の「文脈」(社会に要請され世の中に存在するジオラマ一般が本来持つ用途)を奪われ、無意味にそこに「ただある」ジオラマ、それは「俺、ジオラマですけど何か?」と呟いているようだ。あるいは、ラストシーンでごちそうとして(?)銀の皿に載せられたシカの頭が登場するが、それはあからさまにどこかの家の応接間から持って来た「シカの頭の剥製」である。「シカの頭の丸焼き」の「代理物representation」ではない、ということだ。

(3)この世界(作品)が強度をもつには、舞台空間やモノのサイズ、さらには観客との「距離」が重要となる、このことに関して「傍証」として挙げておきたいのが、2004年に西新宿の空き地で上演されたペニノの『黒いOL』だ。その舞台空間は地下坑道(驚異の地底人国のOLの職場?)で、やはり尋常ならざる熱意とエネルギーによって見事に作り上げられたのだが、地面を掘削しコンクリートで固められたその洞窟は、「原寸大」の(ゆえに)(単に大掛かりな)「舞台美術」として機能してしまったのだ。たしかに「舞台美術」としては破格の造作物と言えるが、やはりそれは「舞台美術」でしかない。そして観客は洞窟の手前から、相当に奥のほうまで伸びた舞台で行われるあれこれを「遠くから」鑑賞することになる。実際の距離は心理的距離でもある(実を言えば、さほどの距離と言うわけではないのだが、心理的には普通の演劇の上演される大劇場の最後部の席のように、「遠く」感じられた)。観客の態度は一歩退いた場所からの理性的な観察にならざるを得ない。かくして、『黒いOL』における観客は、まさに『苛々する』の真逆、「実物大」の「舞台美術」(≠ジオラマ等の「実物」)と「距離」の存在により、その(今思い返せば)相当に奇妙な物語にも没入(強制的な鑑賞)ができない、どうにも気が散り、せっかくのタニノの「世界」を享受できない状態に留め置かれるのだった。

(4)ところが、じつは、それらの舞台は『苛々する』と異なり、一見「普通の演劇」のような体裁を持っており、するとマメ山田は、たとえば「ペーソス溢れるホームドラマ」に何故か闖入してしまった(何らの必然性なく存在する)異物ということになる。彼(だけ)は「本物」の「小さい人」なので、作品世界全体の「寸法」、representation のレベルの整合性が狂ってしまうのだ。それでも、彼の放つ異物感が形成する磁場のようなものが、舞台全体を浸食し、歪ませ、その「失敗した(?)リアリズム演劇」状の劇空間を奇妙だがどうにも魅力的な「珍味」にすることに成功していることは確かなのだが。
 逆に、「苛々する」にマメ山田が出演していないのは、おかしい(もったいない)ように思えるが、よく考えると当然のことかもしれない。彼を起用した場合、他の人物、すくなくとも床上の女二人も「小さい人」でなければ、実際に行われた上演と同等の、あるいはそれを上回る成功は望めないだろう。それ以前に、現実問題として、ちょっと無理そうだ。

(5)どう見ても「ごくつぶし」なというか「下流」の臭いがプンプンする役者(?)たちの「こりゃダメだ」な「腐れ演技」で、「ジャンキー」の見ている「幻覚」の風景(目の前に「実体化」しているイメージ!)のようにナンセンス&シュルレアルな、しかも「オチ」があるとかないとか言う暇もなく瞬時に終わってしまうコントを速射(一舞台に40本!)する鉄割アルバトロスケットもまた「演劇」というにはあまりにも「役立たず」である。
 あるいは、任意の無駄話(無意味な台詞)をサンプリングして構成されたチェルフィッチュ岡田利規)の『クーラー』や、意味内容がすべて吹き飛んでしまう程に超スピードで台詞が飛び交う矢内原美邦の『五人姉妹』は、『苛々する大人の絵本』とはまた別の方法で演劇を「純粋芸術」化することに成功している数少ない作品だ。そこでは、ストーリーを追うことや、台詞の逐一を聞き漏らすまいと神経を使うことを免除されることにより、極言すると、観客はそこに生起する「グルーヴ」に身を任せているだけでOKという、音楽やダンスの特権とされる受容が成立していた。実は『クーラー』に関して、岡田自身は「ダンス」作品と定義しているのだが、最近の岡田演劇の方法の変化を見ると、こうした方向性に向かっているようにも思われるのだ。チェルフィッチュは一時「格差社会を批評するニート演劇」といった語られ方をされたりもしたが、もちろん岡田演劇の本質は最初からそのような皮相なものではない。ただ、そうした「読み」を誘発せざるを得ないのが、演劇の社会的立場、ということは確かだろう。
 現実の「劣化コピー」としての表象によって単なる現実の追認をしているような演劇も、観客(と批評)の「そういうこと、あるよね!」「こういうヤツっているいる!」「だよね、共感!」に支えられて成立してしまう。とりわけ、「露悪」的な過激さをもって「リアル」を標榜する(「この現実を見よ!」)類の演劇など、現実社会の“「現実」への逃避”(大澤真幸)という現象の、そのまた代理ー表象なのだが、それだけに批評にとっては相当に重宝な「おいしいネタ」ということに相成るわけだ。ホント、「世間」ってヤツは.......。