「コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」

7/16 国際共同研究「日本の舞台芸術における身体― 死と生、人形と人工体」(ボナベントゥーラ・ルペルティ主宰)
第6回研究会
コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」レジュメ


1.「コドモ身体」Child Body

「2000年代の日本のダンスの新しい傾向」を表す言葉として命名(2004年 桜井)。
とりわけ「ニブロール」(矢内原美邦)。
・おのれの身体に対して過不足なく力を働かせることが出来ない(しない)、重心移動をはじめとして、身体コントロール全般が「ユルい」子供のような「身体-運動」。
・「きれいな、正確な、スムーズな」身体操作ではなく、むしろ「ギクシャクしていて、ブレたり軋んだり、つっぱらかったり」するダンス、
・「すっと真っ直ぐ姿勢良く」ではなく、「フラフラ、ダラダラ、揺れている」身体のダンス。
ダンスの規範(理想)からズレた身体-運動。
素人・生育不良・子供な身体-運動のダンス
ダンス的な根拠として→
・そっちのほうが「活き活きしている」という感覚的・感性的な判断。
・日本的身体の系譜:「老い」=「成熟」。侘び寂び(歪な茶碗)。「舞踏」の身体(大野一雄の「老体」。土方巽の「病身」「不具」「撓められた身体」)
・そもそも、本来的にダンスという行為・欲望はすべからく「身体を本来の目的(生存・生活の円滑な遂行)やその為の正しい使用法に則って用いるのではなく、間違った使い方で「オモチャ」にする」ことではなかったか?
しかし、残念ながら当時ダンス業界ではかなりの反発(嫌悪)をくらった。
ほどなくして、演劇にも「流用」(チェルフィッチュ岡田利規など)。
演劇方面では一定程度、用語として流通。
そもそも、90年代の小劇場系演劇の俳優の身体(立ち方、発声)が、源流。(宮沢章夫松尾スズキ岩松了など。平田オリザ除く。)
ニブロールは小劇場の「オーソドックスな訓練を経ていない俳優」を「ダンサー」として起用した。
「60年代アメリカン・ポスト・モダンダンス=ジャドソン教会派とニブロールのコドモ身体的ダンスの関係」と同じことが「平田オリザ宮沢章夫松尾スズキそしてチェルフィッチュの演劇の身体との関係」にも言えるのではないか?
→普通・普遍的身体(ニュートラルな、標準的日常性)か、一人一人の身体の固有性・特殊性か。
その後、2000年代後半から急速に「コドモ身体」的(と桜井が言うところの)ダンスが消えていき、代わって「テクニック重視」の「オーソドックスな(保守的な、と桜井が見做すような)ダンス」が盛り返して今日に至る。
いっぽう演劇では、チェルフィッチュのスタイルが一つのデフォルト・基準となり、その更新・変形が広く目論まれている。(チェルフィッチュは欧州への進出を機に、主たる関心を身体から劇構造へシフトしたように見える。)

2. 2011年、3.11以降の演劇(?)における「発話」について

かつての「コドモ身体」論では、概ね俳優の立ち方、振る舞い方を(ダンスと同様に)考えていたが、演劇の身体とは、一義的には台詞の「発話」ではないか?
そこで、2011年、3.11以降に観た(聴いた)いくつかの演劇(広義の)の発話について考えてみる。
・高校生の演劇:飴屋法水『ブルーシート』https://www.youtube.com/watch?v=tDHnw8DTSn8
いわき総合高校の演劇専攻の生徒たち。演劇的スキルは乏しい=ヘタくそ。にもかかわらず、きわめて自然体の演技が成立していた。自分のことを語るリアリティ・強度。
・一般市民のぶっつけ本番の朗読:「F/T13オープニングイベント いとうせいこう宮沢章夫『光のない』(イエリネク作)」https://www.youtube.com/watch?v=5AQ7YrLeCIY
途中からマイクを観客に解放し、配布された『光のない』のテクストを次々と一般人(シロウト)が読み上げていく、という構成。彼ら彼女たちが訥々とつっかえながら読むのを聞くと、不思議なことに、あの恐ろしく難解なテクストが、「入ってくる」(頭に、というより心に?)のだった。それは、反原発(や集団的自衛権反対)のデモや集会の市民によるスピーチを思い出せた。「怒り」の言葉の強度・リアリティ。
・訓練された俳優による意図的な「吃音」:地点『ファッツァー』(ブレヒトhttps://www.youtube.com/watch?v=I__WNJl68xQ
ズタズタに分節化(分断)されたセンテンス・単語、そこから(再度)立ち上がってくる「意味」。通常の俳優の技巧的な発話は、抑揚により強調や感情の「機微」をもたらすと考えられるが、ここでは、言語の物質性(異物性)がほんの少し遅れて届く意味内容と合わさって、奇妙な「強度」をもたらすように思われる。

以上、3つの事例に共通して言えるのは、発話の非「流暢さ」のもたらす「リアリティ」という逆説的な事実である。
→2000年代の「コドモ身体」と同様に、「劣弱性」が表現として「強度」を獲得している。しかしながら、その意味するところは何だろうか?