『音で観るダンスのワークインプログレス』

 「音で観るダンス」。つまり、目の不自由な人のためのダンス観賞「音声ガイド」の作成を目的とした研究プロジェクトのワークインプログレス、経過発表会。
 近年、視覚障害者のための劇映画やドラマの音声ガイドは普及しつつあるというが、セリフを補足するかたちで、今話しているのは誰か? そこは何処か、昼か夜か、天気はどうか、向き合って話しているのか、並んでか? といった情報を提供するそれとは異なり、ダンスの場合、ストーリーもなく、食器を取るために「右手を伸ばす」とか、小銭を拾うために「腰を屈める」といった目的動作でもない動きの連なりを、どのように知らせることが出来るのか? そして、我々が普段ダンスを見ることから得ている「感興」に似たものを提供することが出来るのか?
 発表会は、捩子ぴじん振付のソロダンス作品が作者本人によって踊られ、レシーバーで音声ガイドを聞く、という趣向。音声ガイドは作者=踊り手自身が付けたもの、研究会参加者たちが考えたもの、能楽師の安田登によるものの3種類が用意された。しかし、これが同じダンスのことなのかと思うほどまったく違う!あるシークエンスを各々どう説明したか? 少し見てみよう。
捩子「尻穴から頭頂へウエーヴ。案山子になって起き上がる。風に吹かれる。股割り。地球の中心へ全体重。爪先立ちからのガクガク、脳梗塞のジェームスブラウン」。
研究会「左を向き、両手を横に開く。広げた両足で地面を打つ。体を震わせながら少しづつ舞台中央へ」。
安田「や!痛みがまた暴れだした。四方八方に鋭角なトゲが出る。凶暴な金平糖のような鋭いトゲ。腹の中が攪拌される」。
 捩子のガイドは「僕はこれをこんなふうなものとして作り踊っています」といういわば「著者解題」。研究会バージョンは、極力客観的な記述を心がけており、ダンサーの空間上の位置、移動の方向、手足の位置情報を正確・精緻に伝えようとする。能の「謡」ふうに発声される安田登バージョン(本人の声)は、「私は部屋である、私の中になにやら異物が迷い込んだらしい。」という一言から始まる。つまり、ダンサーを体内の異物と見立て、ダンスを客体として対象化しつつも私がそれを体感する、という主観=客観というべきか。
 つまりこの試みは(障害者福祉の試みであると同時に)、ダンスを記述する方法の問題、さらに言えばそもそも「ダンスを見る」とは何か、何を見ているということなのか、という問いが提起されているのだ。 僕自身が普段ダンスをどう見ているのか? あらためて考えさせられた。それが退屈な時は、動きの逐一が平板で「何かあれこれ忙しく動いてるなー」としか感じられない。逆に、ダンスが面白い時は、さまざまな情報が一気に飛んできて、複層的に受け止めている。まさにこの日の音声ガイド3つを同時に聴くように、多様なレイヤーの重なりを一個の身体に見ているのだ。ダンスという行為/体験の豊穣さ。そして、聴覚で、というより言葉で伝えることの難しさもまた。

公演データ:『音で観るダンスのワークインプログレス』2017年9月16日 KAAT大スタジオ
 http://www.kaat.jp/d/ws916

初出:『ケトル』(太田出版)2017年10月