本日の朝日新聞夕刊でコメントしてますが

朝日新聞、今日(1/29)の夕刊の「身体解放区/コンテンポラリーダンスは今」(下)という特集記事の中で僕もすこしコメントしています。そのうち、
「欧米や既存の型にとらわれていた90年代から、00年代は自由な発想のオリジナルな表現が評価されるようになった。」
「その結果が今の「いわば『すべてがダンスである』という状況だが、この幅広さの中で、難解と敬遠されそうな先鋭的・抽象的な表現でも案外すんなりと受けいれられるようになってきた。」
という部分を、少し補足しておきたい。
この「難解と敬遠されそうな先鋭的・抽象的な表現」というのは、端的に神村恵とか手塚夏子とか最近のチェルフィッチュとかのことです。空間・運動・身体にフォーカスしたフォーマリスティックだったり原理的だったりする「地味め」の「探査」系。
2009年の只今オモシロいのは、あるいは、今後面白くなりそうなのは? と聞かれれば彼(女)等ということになるわけだが、社会的(一般レベル)に見れば、00年代前半の「コドモ身体」の狼藉三昧というか欣喜雀躍(笑)の「大立ち回り」が一段落して、「沈滞ムード」に見えるかもしれない。
すると、「コドモ身体」は「戯言」と断じ、やっぱ「体力と技術の極限までを用いて踊りきる」、これがダンスのあるべき姿でしょ!というような「保守反動」が勢いづく危険がなきにしもあらずだ。
だが、ここ数年の間に育ってきた新しい観客は「難解と敬遠されそうな先鋭的・抽象的な表現」であっても「すんなりと受け入れる」ことが出来る、まさに「新しい」、「ニュータイプ」なのではないだろうか。考えてみれば、ポスト・ロックやノイズミュージックがフツーに受容されてるのだから、当然のことだ。
ところで、傍目には僕が「吾妻橋ダンスクロッシング」や一昨年の「HARAJUKU PERFORMANCE+(PLUS)」でやってきたことは、まさに「2000年代前半の狼藉三昧」と映るだろう。事実、神村さんにしても手塚夏子にしても出演してもらいたいのだけれど、どうやったら他のラインナップの中に混ざっても「地味」にならないか、というようなプロデューサー的な判断が邪魔をして、機を逃してきた。つまり、「新しい観客」のキャパシティを見誤っていたわけだ。だって、彼等は快快(ファイファイ)と神村恵の両方(もうすぐ49歳になるオヤジ的には「両極」)をいとも平然と許容できるのだ。ただ、一つ思うのは、そうしたニュータイプの観客層を育てる、という点においては「吾妻橋」もそれなりに寄与したのではないだろうか、と。あと、その観客の「キャパシティ」というのは、当然ながら、金森穣でも「全然OK」なんだよね、そこんとこヨロシク。実際、金森クンには吾妻橋もだいぶ前に出演オファーしてるんですよ。残念ながら「多忙につき」ということでしたが。
で、要するに朝日の僕のコメントは、ダンスとその受容のキャパシティが「広くなった」からこそ、ファンダメンタルな作業を行う作家も「全然OK」になった、これが2000年代の総括から見た2009年のダンス状況です、ということ(若干手前味噌込みだけど)。