ヤン・ファーブル、サッシャ・ヴァルツ

5/13(土)ヤン・ファーブルのドキュメンタリーと舞台作品にヴィデオ(@さいたま芸術劇場映像ホール)
大文字の「芸術」の正嫡。まさにヨーロッパ!!!。ヨーロッパの貴族的(?)文化の一員であることのエンブレムとしての芸術制作と消費。生ー政治的に言えば美学に過ぎない。ヤプーであるところの我々からすれば、この空疎な蕩尽にはつき合いきれないところがある。So What? っていう感じ。マシュー・バニーとかもそういうところがあるよな。「つるぺた」なイミテーション=大量生産品に対しての汚れ、獣臭さ(ウンコ臭さ)=自然の支配者の戦利品とかいうサルトル(「聖ジュネ」)の論を思い出した。
あと、挑発という機能が根本のところで理解できないんだな、こっちとしては。全裸とか糞を投げつけられて喜ぶ文化的感性、それって、マゾじゃん。あー、文化ってやつは鬱陶しいのよねー。
では、ファーブルの舞台は「演劇」としてはどうか? 表象代理=象徴=記号処理に対する疑問が完全に欠落している。叫ぶ、わめく、涎を垂らす、脱ぐ、等そこでの行為=演技は、たった一言(「糞!」)で足りることの表象を代理するだけである。「いやがらせする、あるいはMを脊髄反射させる」だけが目的なので、ただそこにそれ的なアイテム(行為=記号)を置けばいい、ってことだな。リアルな残余はない、もしくは台無し。まあ、解体社が政治を美学的に表象するように見せかけて、美をポリティカルなものに偽装しているのに比べたら、ファーブルの「美」のことしか言わない態度は正直ではあるけどね。
そうそう、最近、ヴィスコンティ「山猫」(完全版)を観た。昔は感動したこともあったのだが、今あらためて見たら、もの凄くつまらなかった。「美」とか言ってんじゃねーよ、って。とにかく仰々しいんだけど、ドンくさい。マンモスみたいな感じ? 裸の王様。編集もテンポ感ゼロだし。後半、長々と舞踏会のシーンが続き、まあプルースト(最終巻のゲルマント邸の夜会ね)やろうとしたんだろうけど、出来てない。ただ豪華ってだけです。ま、ビスコンティが天才だとは思ってなかったけど、最低の部類に入る映画ですよ、これは。これと比べるのもどうかとも思うが、やはり最近「ジャイアンツ」も見なおしたんだけど、これは素晴らしい。話もいいし脚本もいいけど、構図=絵がいちいちよく考えられてる。このハリウッド娯楽映画のアメリカの光と陰の描き方はブレヒト的ですらある。
話を戻すと、昼間ファーブル見たあと続けて夜は同じ彩の国の大ホールでコンドルズを見た。ファーブル=芸術に比べたら芸能=コンドルスのほうがマシかというとそういうものでもない、どっちもどっち、両極端(蕩尽だし、脊髄反射だし)。


14日は同じく彩の国でサッシャ・ヴァルツ「ケルパー」のヴィデオを見た。
身体の即物的測定、食肉加工業者の処理のようにぞんざいに扱われるボディ。解剖学的観点というが、それがダンスと何の関係があるのかがわからない。我々の管理社会における生、それはもはや死体=ゾンビである、と言うのはよいが、それは代理=表象でしかない。