powantanukiさんへのお返事

以下は
@pwatanuki さんのブログ記事「演劇界のオピニオンリーダーたちの偏向を糾す」
http://poorplays.seesaa.net/article/214599924.html
に関する僕のツイートへのブログでの応答
http://poorplays.seesaa.net/article/215206889.html
へのお返事です。

しかもこちらの返信のほうはリツイート(公表)せずに。
確かにRTはしませんでしたが、当該の元ツイートへの返信として投稿したつもりでした。ところが、今見ると、最初の投稿だけが何故かリンクされてませんね。よくわかりませんが、すいません。いずれにせよ、読者がやりとりを再構築出来ないようにはなっていないので、この当たりのマナーは常識非常識という話ではないでしょう。なので、「ブログでのご返事もルール違反ではないでしょう。」はい、全然問題ありません。

まあはっきり言って、論文ならさておき、会話体による進行を旨とするブログで、「気がする」「印象だ」と書いた箇所をあげつらって文章全てが「印象的」で「残念」だと断じるのは、アンフェアというか、そもそも文体に対する感受性を疑いますが
(1-1) 「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね」への質問
 これに関しては続きがその具体例になっています。引用すると、「『わが星』とか快快のDVDを出してるのは、彼が主宰してるHEADZレーベル」「佐々木がHEADZで出している雑誌『エクス・ポ』が、ゼロ年代演劇礼賛の発信源」とか。え?オレは『エクス・ポ』には書いてない?その後で「『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画として佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談も行われている」と書いてます。岡田利規が『エクス・ポ』に連載してたのは無論ご存じですよね?

語尾はもちろん会話体ですから、そういう「感じ」になる傾向が強いのは理解します。というかこの際語尾は措いても構いません。でも、「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象がある」といいますが、これは揶揄的なニュアンスを無視すれば、単に「誰々と誰々が評価して色々と書いたりしている印象がある」という意味になるのでしょうか? そうであるならば、それを印象として語るのに何の問題もありません。その意味では、ご返答にあるような、「DVDを出している」「その人のやってる雑誌が大きく扱っている」というような事例が(あくまで印象の)根拠である、ということもまあ結構でしょう。(それにしても、ご指摘のウェブでの鼎談のどこを読めば、桜井は、ゼロ年代の演劇とあなたの言うところの一群(チェルフィッチュ、ロロ、マームとジプシー、柴幸男)を礼賛している、ということになるのでしょうか?)しかし、あなたが実際に書いたような書き方では、人はこの文章をリテラルには受け取れないでしょう。つまり、この一文は「ある人たち」が、「能天気、無批判、テキトー」に、自分たちの「打算、損得勘定」で、「(実力以上の)評価をして」いる、ような印象がある、というふうに読むようにレトリックを用いているだと思います。そうでなければ、もっとニュートラルに書くはずですから。しかし、私が問題としているのは、そのような非好意的な態度ではなく、やはりその批判の根拠なのですね。「打算」でそう評価するのかもっと無私の評価なのか、はどうやって判断出来るというのでしょうか?「(実力以上の)評価をして」いるという判断は、それもまたあなたの判断に過ぎないわけですよね?そこに対する具体例としてはなるほど青山真治の舞台についてのくだりがそうなのかもしれませんが、そういう積み重ねがある程度ない状態では(私の批評に対する具体的な検証は一切なかったと思います)、単にdisってるのね、と言われかねないと思うのですが如何でしょう? あれ?今思ったんですが、もしかしてそういう話ですらないのかも。この項へのご返答は、すべて、「この者たちがツルんでいるその証拠」ってことですよね? 僕も佐々木さんも岡田さんも色んな人と色んな場所でツルみますが、グルになって(徒党を組んで)悪だくみ(笑)はしてませんよ。「岡田利規が『エクス・ポ』に連載してたのは無論ご存じですよね?」って何ですか、岡田さんはそれこそ新潮からユリイカまであらゆるところで書いてるじゃないですか。馬鹿らしい。そもそもそれが何だっていうんですか?「岡田は佐々木派だ」とでも妄想してるんですか?

(1-2)「宮沢章夫いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ」への質問
「岩波文化人」というのは当然「リベラルを謳いつつ実は教条的な文化人」の謂いです。「グルーヴ」だの「コドモ身体」だの「テン年代=天然だい!」(これは佐々木敦ですが)だのといったタームによる囲い込みが、教条的に(=枠に入らないものの排除として)機能しないとでもお思いでしょうか?
 ついでに、彼等の「緩い連帯」が本当に行われているかどうか、twitter上の関係を可視化するサイトで実証してみましょう。まずは、桜井圭介@sakuraikeisukeと宮沢章夫@aki_u_enchといとうせいこう@seikoitoの関係(佐々木敦@sasakiatsushi を省いたのは、彼がフォロワー0のため結果に反映できないから)。結果はこう。
http://twiangulate.com/search/sakuraikeisuke-aki_u_ench-seikoito/common_friends/table/my_friends-1/
比較対照の例として、勝手ながら@seikoitoと文学座@bungakuzaを入れ替えてみましょう。
http://twiangulate.com/search/aki_u_ench-sakuraikeisuke-bungakuza/common_friends/table/my_friends-1/
宮沢章夫文学座に書き下ろしたことさえあるのに、誰かさんとの関係より文学座との関係は薄いと考えられますね…
おまけで我々@powantanukiも。
http://twiangulate.com/search/aki_u_ench-sakuraikeisuke-powantanuki/common_friends/table/my_friends-1/
まあ、本来こんなことわざわざ検証するまでもないことですが、ご質問なので念のため(笑)。


ああ、ちょっとわかってきましたよ。「「宮沢章夫いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ」に対する返答も、まずは「あんたらの言動は教条的に機能するから“岩波文化人”というわけですよ」と。ですから、そこのとこのdisりは、別にやっていただいていいんですよ。(ただし、いとうせいこう宮沢章夫の2人について、powatanukiさんは名前は出してるけど、彼らの仕事のどこがどういけないっていうきちんとした批判はしてませんよね?それもあんまりまっとうじゃないと思います。)僕が問題にしているのはむしろ、「宮沢章夫いとうせいこう〜桜井〜佐々木」が「事実として」どのように連帯しているのかをお聞きしたかったんですね。ツイッター上の関係を可視化って、これが、宮沢さんと佐々木敦の連帯、いとうせいこうと宮沢さんの連帯、桜井圭介と佐々木敦の連帯が、どのようなものか、を示しているとでも仰るのですか? そもそも佐々木さんはフォロワー0だから省きましたって、たった4人の連帯を検証するのにそのうち1人のデータがまるまる欠けちゃっていいわけないじゃないですか(笑)
とにかく僕がお聞きしたかったのはこれまでに誰と誰との間でいつどのような形で「連帯」と看做しうるような協同や共謀(笑)が行なわれてきたか、という、そういう意味での「事実」なんですよ。

(2-1)「桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ」への質問  
ええと、@sakuraikeisuke のTLを1ヶ月ほど辿ってみました。答えは、バストリオ『絶対わからない』、『20年安泰。』、ニブロール『THIS IS WEATHER NEWS』、サンプル『ゲヘナにて』。新劇もミュージカルもクラシック・バレエも、ついでに歌舞伎も能もありませんね? 本当は見ているけど/愛しているけど/興味があるけど、書いてないんですか?? そこは確かめようがないので、違うと「推測する」のが妥当。と考えると「っていう感じがする」は至極真っ当な表現じゃないですか?(笑) 違うなら、それらの感想or批評をツイートしなかった理由とともに申告してくだされば「違うそうです」って追記しますよ。

ははあ、ツイッターダダ漏れ説の人ですか? 残念ながら、書かない場合も多いです。特に何も言うべきことがなかったり、つまらなかったり、忙しくて呟きそびれたり、あえて自己規制したり。自己申告すれば、5:5ですね。これはおそらく激しく個人差があるはずなんで、ツイッターへのつぶやきだけを資料として人を批判するのはちょっとあまりにも無謀だと思います。
その上でお答えしますと、確かにここ1ヶ月と言わず、半年は、能、歌舞伎、文楽、日本舞踊全般、観てません。どれも好きだけど。バレエは愛してますが1年半ぐらいは観てませんね。今、基本的にそれほどいいバレエ少ないんで。新劇は、そうですね、10年は観てないですねー。興味持てないんで。ミュージカルは20年?最後に観たのはライオンキングだったかシカゴだったか。すいません、そもそもまったく興味ないジャンルなんで。
さて、ここで、powantanukiさんは「鬼の首を取った」つもりになるんでしょうか? 「ミュージカルも商業演劇も歌舞伎も能も新劇もあらゆるジャンルの舞台表現に等しく目を向ける」ことは、大変素晴らしいことだと思いますが、私自身は自分のしていることや書いていることとの関係からいっても、そういう観劇習慣が必要とも思いませんし、そんなオールジャンルに精通していたり、目が利く人は存じあげません。この話を「批評」活動に限定して考えても、通常は、自分の専門ジャンルの対象を見るときに視野を広くもったり、関心の問題についての考えを補強するために、それ以外のジャンルの舞台を観る、知る、研究する、という程度だと思いますが。あくまで通常は。
それから、これはもうほんとに老婆心ですが「違うなら、それらの感想or批評をツイートしなかった理由とともに申告してくだされば「違うそうです」って追記しますよ」って、あなた、ちょっと普通じゃないですよ。さっきツイートでも言いましたけど、「お詫びと訂正」でしょ、そこは!w

(2-2)「あの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね」への質問
 佐々木敦についてはこの件にたっぷりと言及してますが、桜井氏本人については確かに言及してないですね。でも、木村覚との対談には、以下のようなとってもエゴイスティックな発言があります。
「(木村の『「コドモ身体」論では、どうもイズム=主義が主で、ダンスは従という気がするんですが』を受けて)ダンスが従というのはそうかもしれないけど、イズムが先にありではなく、私・桜井が先にある、という感じかな(笑)」はい、「目的じゃなくて手段になってる」認定。

嗚呼!どうして人はリテラルに読むべきときはリテラルに読まずに、そうでないときはリテラルに読んでしまうのでしょう(笑)。
「ダンスが従というのはそうかもしれないけど、イズムが先にありではなく、私・桜井が先にある、という感じかな(笑)」これは、前後併せて読めばお分かりになるはずなんですが、「ダンスに実存を仮託してしまう」と言ってるだけですよ。それ、「手段」じゃないですから。ちなみに僕は別の場所ではこうも書いています。『「ローラン・プティにとって目的とはダンスそのものです。「手段」ではなく「目的」。対象そのもの。愛の対象。』(『西麻布ダンス教室 増補新版』p.226)これが、僕の長年変わらないダンス論の核心部分であることは、たいていの方には理解されていると信じたいですね。
それにしても「佐々木敦についてはこの件にたっぷりと言及してます」とおっしゃるのですが、僕には、佐々木さんにとって「演劇、ダンスが手段になっている」ということを裏付ける証拠た得る記述は見当たりませんでしたが?この点については、やはり、具体的な「談合」「賄賂」「搾取」あるいは「権力を盾に行なった何らかの不正義」の事実がどうしたって必要なんじゃないかなー?つまり、こう思うのですよ。少し話を譲歩するとして、人が何かする時に「それが無私、無欲なのか打算があってのことなのか」という話はゼロか100かというふういは出来ないし、「手段か目的か」というのも、そう簡単な話じゃないと。そして、それは端から見てて分かるようなわかりやすい話じゃないよ、と。

(3)「佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。」への質問

こっちも同じく飽きてきましたー(笑)。だって、論が全部同じようにズレるんだもん。
これに根拠を与えることができるのは、
何を見て(誰の声を聞いて)この公演を見に来ましたか?的なアンケートのデータとか、さまざまな舞台の集客数のタイプ別の比較とか、精緻な実証データ以外にないでしょう。それ以外は「何となくそういう気がする」という印象でしかあえいえないわけですよ。
powatanukiさんがあげてきた「ペダントリーをちらつかせて一種の権威になることによって、興行側も観客もまるごと自分の影響下に収める」、というのは論証不可能の「陰謀論」(笑)じゃないですか?
あとどうでもいいですけど、僕の仲良しでフォローしあってる人に某新劇団の照明家がいまーす。


(4-1)「クラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ」←クラブカルチャー的なところの意味するところは? という質問
チェルフィッチュが西麻布SuperDeluxeでやったり、ままごともラフォーレミュージアム原宿でやったりしてたけど、要するに「ライブハウスでも公演を打つ集団」もちょっと広げれば「舞台における音楽の比重が大きい集団」といった程の意味です。ちなみにチェルフィッチュも快快もままごとも、小劇場王道の地・下北沢で公演を打ったことがありません(マームとジプシーはあるみたいだけどね)。

なるほど、そういう意味合いだったのですね。「的」というのは便利な接尾語ですね。でも原宿ラフォーレは普通のホールです。これまで何十年と普通の舞台をやってきてます。「舞台における音楽の比重が大きい集団」って言えば、ミュージカルとかのほうがはるかに、って思いますが。マームもロロも、柴幸男だって「わが星」以外、別に音楽の比重大きくないと思いますが? チェルフィッチュの特定のいくつかの作品についてはまあ分かります。
で、ここでは、何を仰りたいのでしょうか? とにかく、「小劇場王道の地・下北沢」をもちあげて「クラブカルチャー的」なやつらを(その理由だけで)貶めたい、と?

(4-2)「ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら」←「さることながら」は当該の文の後半のどこにつながりますか? という質問
「さることながら」というのは当然「…は言うまでもなく」という意味で、「演劇をターゲットにする」にかかり、「いつかは演劇方面にアプローチしただろうけど」という意味です。何か変ですか? それとも「佐々木に話が流れちゃってるけど、自分についてもっと書いてほしかった」ってことでしょうか?

なるほど。わかりにくいですけど、了解しました。それでは、「ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた」らなぜその後「演劇方面にアプローチ」することになっちゃうんでしょうか?その「根拠」がわからない(笑)

そもそも我々はあなた方と何の利害関係もないのだから、「ためにする批判」をやろうと思ってもしてさしあげられないんですよ。

こういう理屈がそもそも理解できません。まず、「何ら利害関係がない」ということが、powantanukiなる筆名のままでは、まったく証明のしようがないじゃないですか? 私が今ここでしつこく(笑)問うてきた「根拠」とは全てそういう意味での「根拠」です。
率直に申し上げて、powantanuki さんが、人を貶めるためではなく、まったく公平な立場で、特定の人の言動(今回の場合は、ほとんど批判したい言動すら同定できませんが)を批判なさりたいのでしたら、文体も出来るだけニュートラルに、というのは間接的には、対象に対する礼節を保って、批判を展開するほうが、まっとうだし、効果的だと思います。そうでないから、「ためにする」というような「下司の勘ぐり」が生じるわけですし。