バレエ

スターダンサーズ・バレエ団の公演@五反田ゆうぽうとフォーサイス『アプロクシメイト・ソナタ Approximate Sonata』(「ほぼ、ソナタ」っていうこと?)を見た。1996年作品。日本初演。これは『The Vertiginous Thrill of Exactitude 』と併せて上演される「20世紀後期のManner による2つのバレエ」の一部。トム・ウィレムスの音楽はピアノ・ソロ生演奏で、トーン・クラスターやセリー等20世紀後半の様式が顕著に見られるもので、それを作曲者本人がリアルタイムでモデュレートしていた。音楽もそうだが、ダンスのほうもソナタ形式との照応性に関してはわからなかったが、まさに「厳格さのもたらす目くるめくスリル」というべきものだった。
ダンサーも思いの外がんばっていた(特に最初のペアを踊る小山恵美と新田知洋)が、とにかく振付が素晴らしい。色々なことを考える。
一番に感じたことは、ああ、やっぱり「バレエ」って素晴らしいな、ということ。「フォーサイスが」ではなく「バレエ」が。いや、もちろんフォーサイスのおかげですが。かつてあれほどバレエが好きだったのに、今ではほとんど関心がなくなっているわけだが、それはバレエが悪いのではなく、それを踊る今どきのダンサー(その日フォーサイスを踊った中にもそういう質がなかったわけではない)やコンテンポラリー・バレエと呼ばれる類いの作家(キリアン、デュアトなど)が悪いのだ。
それらの何が悪いのか? マチョ性=気取り=表出性(そして勿論、無能であること)が、バレエの「透明さ」を濁らせ、貶めているのだ。
当日のプログラムはフォーサイスの後、チューダー『リラの園』、バランシン『スコッチ・シンフォニー』だった。ほんとはフォーサイス見た後もうこのまままっすぐ帰ろうかとも思ったのだが、つい全部見てしまった。案の定、どんどん気持ちが萎んでいった。それらは「バレエ」として踊られなかったし、作品じたいにも問題がある。チューダーはそもそもが多分に表出的ダンスだし、「バレエ(ダンス・クラシック)」は折衷的に、表層的に採用されている。『スコッチ・シンフォニー』はバランシンとしてはデコラティヴ、ナラティヴな(不純物の多い)「エンタテインメント」作品の部類ではあるが、それでもパフォーマンスのレヴェルで「バレエ」=「抽象」を抽出することは不可能ではないだろう。いや、もちろんそれは可能性の問題に過ぎなくて、そういう上演はまずないのではないか。バランシン作品としてはやはり駄作だ、ということに尽きる。