僕が連載している『INVITATION 』(ぴあ刊)の先月号は創刊1周年号で、付録として黒沢清の20分のショート・フィルムのDVDが付いていた。その「ココロオドル」という作品をようやく見た。作品じたいに対する感想もいくつかあるが、今は別種の感想を書いておく。
この作品はサイレント映画、いや音声は入っているのだが、セリフが一切ない「黙劇」である。物語はある。普通なら会話を伴うはずの状況が描かれているにもかかわらず、セリフがない。それで、俳優は発話することなしに「演技」しなければならない。
印象を一言で言うと(もしかしたらそれなりの経験を積んだ俳優なのかもしれないのに)「みんなエキストラにしか見えない」ということだ。どういうことかというと、身体の動きが「曖昧」なのだ。ひとつひとつの所作が、ピタっピタっと決まらないで、ぐじゅぐじゅと曖昧に始まって曖昧に終わる。これは動きと同時にあるべき発話がないからよけいに強調されるのだが、日本人の身体性の「不様さ」「不器用」に起因するのではないか。嘘だと思うなら試しに邦画と洋画を音声ミュートして比べて見てごらんよ(とくに70年代以降の作品で比べるのがいいと思う)。
ちなみに、主演の浅野忠信は「ストレンジャー」=傍観者という役どころで、だからまったく動かないですむし、主役だからアップが多くて、あの顔だから、かなり得をしていた。
以上、「コドモ身体」論の傍証1個発見、というお話でした。