チェルフィッチュ『地面と床』

※以下の文章は、2013年5月に雑誌『ケトル』のレビュー・ページ用に執筆したものである。

 チェルフィッチュの新作『地面と床』について書く。といっても、じつはベルギーでの初演に向け出発する直前の最終「通し稽古」を観ただけなのだけど。それでもこれを書きたいと思ったのは、今ここの表現として、そして「演劇」として、すこぶる刺激的だったからだ。
 舞台設定は「そう遠くない未来の日本」。務めていた工場が海外移転して以来無職の弟は、死んだ母の墓を守っていたが、 半年前に政権が変わり景気が上向いてきたからか、ようやく「壊れた道路を治す工事」の仕事を得る。いっぽう兄は既に独立し立派な家庭を築いているが、「漠然とした不安」の反映だろうか、中国軍が日本に攻めて来るという夢を見たりする。その妻は妊娠中で、生まれてくる子供にとってこの国はかなり良くないのではないかと考えている。さらに、夫婦には「ひきこもり」で行方不明らしい友人が1人いて、彼女は妻の夢の中に出てきたりする。 そして、母親の「幽霊」が子供達や自分の眠るこの場所の行く末が気がかりで、あたりをうろうろと徘徊している!
 ここで扱われているのはまさに、震災と原発事故後の日本を生きる2013年の僕たちの「生活と意見」と言えるあれこれに他ならない。しかも驚くほどストレート(ベタ)な。
 いっぽう、「内容」のベタさに対して、その「話法」のほうはきわめて方法的だ。ここでは通常の演劇のように物語=ドラマが起承転結しない。そのかわりに、さまざまな「声」(さまざまな立場と価値観、それぞれの意見)が順次「併置」されていく。さらに死者(過去)と生者(現在)と生まれてくる子供(未来)が、同一の舞台に並んで存在している。 ちなみに、浮遊霊ということになっている母親だけではなく、しばしばその場面には登場していないと思われる役の俳優が舞台上をフラフラしている。その奇妙な仕草は、きわめて魅力的な「ダンス」と言ってもよいかもしれない。
というわけで、観る者の頭の中には、声や音や身体が、そしてそれらが担う思念が、「幽霊」のように浮遊する「空間」が生成されていく。本来は時間の芸術であるはずの演劇が、あたかもインスタレーション展示のような、「空間」として把握されるのだ。
 大事なことを忘れていた。この作品にはバンド「サンガツ」が音楽で参加しており、それも単なるBGMとしてではなく俳優の言葉=声/身体と同等の存在として併置されている。 その音たちもまた時間を推進させることなく空間に浮遊しているのだった。そう、まさにこれは「アンビエント演劇」と言うべきかもしれない。
 それにしても、一つの「結論」へ向かって導かれていくことなく行き場もなく漂う思考たちを思考してばかり、それはまるで今の私たち。何故そうなってしまったのか? 震災以後、死者や未来の子供の声が聴こえるようになってしまったからだ。