家具の演劇(ちょっと加筆)

チェルフィッチュ『フリータイム』@Super Deluxを観た。
ミニマル・ミュージックアンビエント・ミュージック(アンビエント・”ハウス”ではない)というか「家具の音楽」のような演劇。'80/'60年代的方法論で'00年代のこの場所の現在的問題を語る、「フォーマリスティック」なアートによってポリティカル(実存的)な「内容」を語る。そのことのねじれ、でも意外な効果が、でもやっぱりその可否というか是非、について考えてしまう。
去年の桜美林の『ゴーストユース』*1は、「レプリゼンテーション」問題についての刺激的な考察・自己言及だったけど、今回は観念、想念の「現前化」が目論まれている、という感じ。なのかどうか?いや、『ゴーストユース』でもその点は共通しているような気もする。
で、「家具の音楽」「アンビエント・ミュージック」の場合は、音という抽象が物質化、現前化されると言えるが、ミニマル音楽のほうは、基本的にはフレーズという表象(ノーテーション)の枠内の操作だから、現前化といっても物質化されない現前化なのだろう。それでいくと、岡田君のこの方法は、ミニマル音楽型のような観念・想念の、さらに言えば「言語」の現前化なのか、それとも家具の音楽アンビエント・ミュージック型の物質化にまで及ぶのか。
そこで鍵となるのがパフォーマーの「身体」だろう。あくまで何となくの感じだが、今回、言語(観念・想念)がミニマル的操作によって現前化されることと平行して(引き換えに)、身体の現前(物質性)が減衰していくことになっていないだろうか。もしそうだとするなら、それは「演技による観念およびキャラクターの現前化」即ち「俳優個人の消去」という近代演劇のイリュージョニズムと同じような構図に結果しているということにならないだろうか。しかも、『フリータイム』の場合、キャラクター=役というものは(固定的には)ないので、残るのは観念・想念、(そして形式・構造)である。その点、『ゴーストユース』では、仕掛け上、「20歳の学生」という「現前」する「身体」が作品すべての土台になっているのであった。
と、ここまで書いて、頭がボーっとしてきた。この問題はホント難しいよ。で、いきなりレベルがガクっと下がった物言いになりますが、つまり(?)「パフォーマーがなんかイマイチ活き活きしてなかったなー、それは何でだろう?」という、僕的には「例によって」なアレがあって、それでまあ、ない頭をしぼってしまうのでした。
とにかく、もう一回観る。
(正面席というのはないけど、どちらかというと会場入って手前がオススメかも。)