お詫び

去る9月27日にツイッター上で私は、荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」について、
「いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)」
と、ツイートしました。
このツイートは、私の誤りでした。荒川氏に謝罪するとともに、言論人としてこのようなツイートをしてしまったことを反省します。

・まず、田中功起氏が書いてくれたように https://twitter.com/kktnk/status/516244802124644352
「批評家には実際に見て判断してほしいと思う。パフォーマティブなプロジェクトならばなおさら。」
作品を見てもいないのに判断を下したこと、これはまったく不誠実で誤りでした。

・さらに、甚だしい事実誤認をしていました。
私はこの記事を読んでツイートしたのですが、http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/25/frieze-london-fukushima-soup_n_5886086.html
荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」は、既にロンドンで展示=パフォーマンスが実施されていると「思い込んで」しまいました。実際は、まだ開催されていないアート・フェアのための「プロポーザル」でしかなかった。記事を改めて読めばすぐさまそうと分かるのですが、何故かそう思い込んでしまった。弁解の余地のない誤りです。

・また、別のツイートで、福島の問題は、ロンドンで行なっても(理解のよすがとなるような)「コンテクスト」がないからダメ、https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515795021644046336
と書きましたが、これも、田中巧起さんの言うように https://twitter.com/kktnk/status/516245425226276864
相応のコンテクストはある。想像力が欠如していました。

・以下に書くことは、まったくの単なる「言い訳」です。自分がなぜ間違いをおかしたのを反省するために書きます。

当該ツイートは、その前に書いたツイートの続きとして書きました。それで文頭が「いっぽうで」となっています。
https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515551670768398336
並べてみます。
反戦展」@ SNOW contemporary 見てきた、というか、やはりこの場合、参加してきた、というべきで、つまり、反戦デモに参加してきた、というのと同じ。通常「デモには参加、展覧会では見る」、なわけだけど。今回は「見る=批評する」ことは出来ていないし出来ない。
いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)

つまり、一個目のツイートは、「自分がその内側、渦中にいる場合、それを批評することが出来ない場合がある」と言っている。これもある意味、批評の敗北、否定のようなものなので、よくない発言だったかもと反省していますが、これは個人的な「実感」なので仕方がないことです。そして「芸術有理」「アート無罪」を一部肯定している。
で、次のツイートにつながります。今度は、逆に、実際に見てもいないものに対して、外側から批判をしている。しかも「しなければいけない」とさえ思っている。→「芸術有理」「アート無罪」を否定。矛盾しています。前のツイートをエクスキューズしているつもりがそうなっていない。おそらく先ごろの藤田直哉氏の『前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題』を巡る論議のことが頭にあって、「こうしたものがアートに対する信頼を損ねるのだ」と、実際を見てもいないくせに、感情的に断定してしまったとしかいいようがありません。
それから、また別のツイートで https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515799900227788800
「科学的に安全」といったデータが与えられてもなお「感情がいうことをきかない」というようなありふれた「真理」を言うために、わざわざ福島を持ち出すな、と。
と書きました。これは、荒川氏へのインタヴュー記事 http://www.oralarthistory.org/archives/arakawa_ei/interview_01.php
を読んだりして、彼の関心が、どちらかというと、個々の事象ではなく「人びとの反応」にある、と感じたことから、福島を心理実験のネタにしやがって、とこれまた感情的にツイートしました。前述したように、たとえそのような(不純な?)動機であってもコンテクストがあれば「効果」として、(原発)問題提起になり得るわけですから、結果が出ていないのに判断するべきでなかったと思います。
最後に、もう一度整理して、自己分析=自己批判すると、
・基本的には芸術の社会に対する力を信じたいと思っているにもかかわらず、その無力さを感じてしまう今日このごろ。
・基本的には芸術の社会に対する自律性を擁護しなければいけないと思っているにもかかわらず、社会内存在としての自分が、そのことを倫理的に糾弾してしまうような事態に陥っている今日このごろ。
・物質的作品だけではなくプロセスやコンセプト(コンセプチャル・アートに限らず)アートを擁護したいと思っているにもかかわらず、いやむしろそのことによって、今回のようにコンセプトだけで評価を下す間違いを犯すことになってしまった。

以上、長くなりましたので、今日はこのへんで。引き続き、考えていく所存です。