ゴーストユース

昼間、足首捻挫した先週の土曜日から6日振りにおそるおそる外出。八王子から横浜線で20分の淵野辺という駅で降りて、岡田利規 作・演出の桜美林大の学生による公演「ゴーストユース」(公演は日曜まで)を観る。
普通の学生が「チェルフィッチュ」を演じる新鮮さ、さらに新機軸もあって、面白く見れた。とにかく出演者が20人ぐらいいて、岡田くんの演出でこんなに大人数の芝居ははじめてだと思う。
新機軸の一つは、「1役10人」ということ、そして同じシーンというかひとつながりのセリフ・会話が何度も何度も、俳優を変えて、演じられる、という手法。これまで話者が途中ですり替わっている、とか、同じ話を反復する、というのはこれまでのチェルフィッチュの特徴的な手法だったわけだが、それをさらに過激というか過剰にしたもの、と言える。
話というか話題は「4歳の子供がいる35歳のお母さんと親友の女性、あとちょっとだけサラリーマンの旦那」という現在の岡田くんの生活実感につながる話。それと、35歳の主婦が20歳のころの自分について思い出したりしてる、という話。
ただ、それと同時というか、それゆえにというか、この話を20歳前後の若者が演じる、ということの「不可能」と「可能性」についての演劇。というか、自分以外を演じるということ即ち「演劇」そのものの不可能と可能性についての演劇でもある。この点が今回の最も重要なポイント。
俳優たちは幾度も幾度も「そうは全然見えないと思うけど、っていうか20歳の学生ですっていっても全然違和感ないと思うんですけど、今、私は子持ちの35歳で、」とか、「左手の薬指に指輪を、あ、今、はめていないんですど、はめている、って想像して欲しいんです、っていうのがお願いの一つで」とか「今は、そこの壁にかかってる時計では2時5分とか(開演直後の実際の時間)ですけど、でも、今11時45分で、もうじき子供を保育園に迎えに行く時間で、でもお昼前だから、おなかがすいてて、そろそろ自分のお昼ごはんを準備しなきゃなー、って思っているところだと、想像して欲しいんですけど」と言うのだし、さらに携帯のメールのディスプレイに「彼女は35歳に見えますか」などと打ってそれをビデオカメラで撮って壁に投影したりもする。
観客は、常に演じること、演じられている表象、演じている者の存在(のリアル)、(自己)同一性(と互換性)などについて注意を喚起されながら舞台を観ることになる。そして、それにもかかわらず(というべきか)、作品で扱われている話題、4歳になる子供を持った35歳の主婦の生活実感や感慨、等々についても考えたり、想像したりする、つまり普通の演劇を観ているときと同じような思考をめぐらせもする。
頭の中は大忙しだ。(そして、それは俳優たちも同じこと(の裏返し)だろう。)観客はしばしば自分の立ち位置を参照して舞台上の人物に対しての同一化や共感を獲得したりもする。その点に関して、今回、僕は、子供を持ったことがないので、20歳の学生のほうから、つまり下からの目線に近いのだが、それでいて実年齢が47歳なのだから、そう考えた途端もうなにがなんだか。
ときに、これは桜美林の演劇コースの岡田クラスの発表公演である。その意味でも、きわめて教育的な実践だと言える。もちろん観客にとっても。つまりその教育的というのはリテラシーに拘るそれのことで、ブレヒト的といってもいいそれのことだ。
そしてなによりラストがすばらしかった。親友と電話で話す主婦の(もうかれこれ何回目かの同じ繰り返しの)会話。「あれ、まだ幼稚園に迎えにいかなくていいの?」「えー?今何時?」「もう1時過ぎたよ」「えー、まだ大丈夫。だって、(と壁の時計を見上げて)今、3時20分だから」と実時間(壁にかかった時計がしめす我々の11月23日の午後3時20分)があっけらかんと語られ、その瞬間、舞台と観客の頭の中のすべてのことがらが、シューーっと一点に収束される。あたかも、うたたねからフッと目が覚めた瞬間のような(何だ夢かという多少の幻滅も混じった)感覚と、すべての点と点が繋がった!といかぼやけていたものの焦点がピタっと合った時の(来たー!という驚愕と快感の)感覚とが、同時に与えられたような。
そして、壁に映し出される携帯のディスプレーには「私たちは4歳の男の子を持つ主婦(35)のゴーストです」。演劇とは、俳優とは「ゴースト」である、と。うーん、まさに。