篠田千明(快快)『アントン、猫、クリ』

じつは2回目。先週の月曜に観て、これはヘタすると相当スゴい作品になるんじゃないかと思った(ラスト前のクライマックスシーンの処理がキモで、それをクリア出来たら、という感じ。それでもしかしかたら、と期待したので再度足を運んだのだった)。
これは、我々の「意識」、そしてその意識によって構成されるものとしての「世界」を、パーツに分解して、それをまた組み立てる「遊び」だ。そう、子供の遊び。子供にプラスとマイナスのドライバが与えられれば、機械は分解されずにはいられない。だが、一旦バラされてしまったものを再度組み立てようすると、部品の取り違え、配線のマチガイは避けられない。再構築(再現前?)=復元と見えてそのじつデタラメなそれは一体何か?
あるいはこれは、子供の「意識」の在り方(行為と意識の間、さらに言えばコトバ=発話行為と意識の間の未分化なありよう。あるいは、記号、その中でも文字と音、と物質との関係の様態)でもあるし、したがって子供にとっての「世界」(「現実=リアル」)、でもあるということだ。
さて、問題のクライマックスシーンだが、シノダ的には、ここのシーンこそが、分解される前の世界、ただし子供の意識に映っている(一瞬の像に集積されている)ところの世界、の表象=再現前=模写として構想されているのだと思うのだが、残念ながら、やはり失敗していた。まあ、でも、よく考えれば、それは無茶な話ではあるよな。象徴化すなわち整理され、階層化され、再統合される手前の世界、ってことは、クライマックスシーンの前までの舞台においてある意味表現出来てる(観客の頭のなかで事後的に結ばれる像として)とも言えるのだから、それでよしとすべきだったのかもしれない。難しいのは、このシーンにおけるパフォーマーの身体の「生身」性だ、ということはシノダもわかってるのだけど。
ところが、この日の舞台は、また別の要因で完全な失敗に終わっていた。ある意味クライマックスシーンと同じ問題とも言える。
2人の出演者のうち女の子のほうの演技が最初みたときと全く異なり、あざといのだ。おのれの俳優的スキル、身体所作と発話の技巧性を誇示する演技。これはヒドい。どうしたことか? おそらくパフォーマーは舞台の回を重ねるうちに、テクストと振りをより身体化し得たと実感しているかもしれない。しかし、そうなるとおそらく彼女は「楽にこなせる」ようになってるわけで、つまりコトバと意識と身体の間の齟齬が消去されてしまうじゃないか。それはより支配の度合いを強める、よりおのれをおのれのコントロール下に置くことでしかない。まあ、青年団としてはそうなるのだろうな。と言ったらアレだけど。ふと、「もしや、『地点』とか意識してる?」とも思った。だとしたら困ったものだ。
あれ?でもそういえば、これのどこらへんが「キレなかった14歳りたーんず」なの?ということはあるな。まあいいか。