【祝・タニノクロウ岸田戯曲賞受賞】 演劇の「純粋芸術化」万歳!——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

タニノクロウ氏岸田賞受賞を祝して2008年に「Revue House」2号に書いた文章を期間限定で掲載する。


演劇の「純粋芸術化」万歳!
——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

 マンションの一室、文字通り「目と鼻の先」に設えられた舞台。幕が開くと舞台はグリム童話にでも出てきそうな18世紀ドイツの田舎風の家の一室だ。白い漆喰の壁、左右にドア、背面に窓。そして何故か2本の「樹」が一本は床から生え、もう一本は天井を突き破って下へ伸びている。しかし、このステージ、マンションの床から1メートルの高さに設営されていて、天井はもちろんマンションの天井なので、人が立って演じることができるギリギリの高さである。やがてこれまたドイツの農婦のような黒っぽい衣装の女2人が登場し、日常スケッチのようなものが描かれる。だが、その「日常」もまた奇妙なもので、どうやら女は部屋に生えた「樹」から採れる白い「樹液」を主食としており、舞台ではその樹液を採取し、意味の(判ら)ない会話を交わしながら食事を取り、あるいは上手側のほうの樹が乾いてしまい液が出なくなっていることを案じたり、というように劇は展開することなく進行していく。後半、しばしの暗転後、明かりがつくとそれまでの舞台「床下」があらわになるのだが、そこには学生服を来た男が仰向けになっている。そればかりか、彼が横たわっている床下の空間はきわめて精巧に作られた「ジオラマ」になっており、青い空と雲、山並みや川、湖、集落、そしてその回りを蒸気機関車が走っている。つまり、「絵」としてはガリバーの世界だ。学生服の男は、受験勉強中のごとき寝言を口にするので、彼はやはり受験生であることがはっきりする。目を覚ました受験生は、うたたね中に自分が知らない間に小人国のガリバーになっていることに“ちょっとだけ”驚く。しかし彼の関心事はほぼ受験に占められているようで、身動きも取れず、参考書も机もないにもかかわらず、なお勉強を続行しようとする。が、集中せんとする受験生の常で、女の子のことを妄想しはじめる。股間のあたりがどうもムズムズする、と見れば彼の股間は床上の「樹」と繋がっている。ミツコ!と女の子(どうやら妹らしい)の名前を叫びながら果てる受験生。ということは、「樹液」は即ち彼の...。この後、床上の世界と床下が繋がり、男は上に上がってきて受験勉強を続けようとし、女たちは彼に夜食(「樹液」)を供するなどしてもてなす場面が描かれたりするが、最後まで結局何だかよくわからないまま進行するので、以下割愛。

 私はこの舞台にただただ「魅了」された。いわば完全に「放置プレイ」のような状況に置かれながら、まったくもって意味不明の物語に、女のカジモドみたいな出っ歯(の作り物)や白い汁をすする音のえげつなさ、足を引きずるようにノロノロと歩き回る二人の女の愚鈍な「造作」に、とりわけ床下の精緻な「ジオラマ」に、驚きとともに魅了されてしまったのだ。
 これはタニノクロウという男の偏執的な創造物である。ただひたすら、彼が夢見る、欲望する事物を実際に実体化したもの、彼の頭の中にある妄想を物質化したものが並べられている。因果、整合性、論理性、バランスを欠いた寄せ集めの部分から成る奇形的な創造物。郵便屋シュバルの城、ババリアの狂王ルートヴィヒの城、あるいはミニチュアのドールハウスの類い。
 だがしかし、本当に驚くべきことは、これが「演劇」として提示されているということかもしれない。今どきこれほどまでに我々の現実(社会)と切れた、全くもって無意味、無価値な舞台は希有である。にもかかわらず、いやそれゆえに、私は奇妙な解放感を感じるのだ。作品のバッド・テイストに反して、これは本当に清々しい。
 ところで「演劇」って何だ? 世界の鏡/公共(討議、コミュニケーション)空間/祝祭空間(ページェント)/慰安空間(エンタテインメント)等々? ギリシャ劇以来の(?)演劇の歴史をごく表面的に眺めてみても、どうも「演劇」というものは、社会の要請に答えることで成立するもののようだ。平たく言えば、社会の中にあって、社会的役割を果たすことを常に求められるという宿命?
 ところが、残念なことにペニノの『苛々する大人の絵本』という「演劇」(?)は、はっきりと何の役にも立たない。心身の疲れをひと時緩和してくれるサプリメントですらない。劇評家も、いつものように何か意義深いこと、気の利いたことを語ろうにも「とっかかり」を掴めない、なぜなら、そこには「現実」の反映が見当たらないからだ(註1)、ざまー見ろ、だ。
 ならば、ペニノは本来「演劇」とは呼べないということになるのだろうか?
 少し視点を変えよう。「演劇」を「形式」として見るならば、それは「俳優」の「演技」によって「出来事」が「物語」られる、すなわち「上演」というかたちの何か、ということになるだろうか。『苛々する大人の絵本』も、この形式を外れるものではない。しかし、「通常」の演劇はこの形式に則り、作者の意図する何らかの目的(さらには、前述したようなあれこれの「演劇が要請されているとされる役割」)を達成するために、演技の質を吟味し、物語の展開に腐心するだろう。そうしないと、例えば目の前で展開される悲恋のドラマが「嘘臭い」ものになったり(そんな理由で死ぬとかありえなさ過ぎー!)、この子は「コギャルのユミ」のはずなのにコギャル「らしさ」を保持出来ない(いつの時代の女学生?)、という事態に陥るからだ。いわゆる「表象代理、再現前 representation」というのは、要はそういうことだ。
 ところが、ペニノの「演技」はというと、今どきちょっとどうかというくらい「臭い芝居」だし、プロットは「支離滅裂」「デタラメ」である。にもかかわらず舞台が成立しているということは一体? 
 先に書いたように、ここで行われていることはタニノの頭の中のイメージ(妄想)の「実体化」である。しかるに、妄想(想像)の「実体化(actualisation)」は「表象代理、再現前 representation」 とは違うものなのではないか。representationは劇の外側にある(我々の生きる世界の)「現実」を参照し模倣するが、ペニノの場合、参照すべきものが元から「イメージ」であり、それは「現実」に存在しない(参照すべき「オリジナル」が実在しない)のだ。だから必然的に、その「演技」や「物語」には「らしく」ということの必要がないわけだ。
 だが、逆に、観る者に「それがそうある」がままに受け取られる必要がある。そこに何らかの「寓意」や「解釈」を読み込む隙間ができるやいないや、その世界は外部の「現実」に通底する何か(外部=現実の単なる反映)に失墜してしまう。だからこそ、プロットはデタラメでなければいけないのだし、俳優は愚鈍に振舞うのだ。
 さらに決定的な要素はその空間造形の特異な在り方だ。通常の演劇の舞台美術(セノグラフィー)は、やはりこれまた「現実」の代理物であり、リアルさ(本物らしさ)や象徴としての適確さなどが求められる。いっぽうペニノの、マンションの一室の中に作られた「天井が極端に低い部屋」や、横たわる男のまわりにこしらえられた「ジオラマ」といった造形は、タニノの頭の中にある通りに実体化された「実物」なのである。つまり、ジオラマジオラマであり、そこに走る汽車は「ジオラマの中を走る“本物の”鉄道模型」に他ならない。そう、「舞台美術」と、たとえばこの「ジオラマ」との違いはrepresentation とactualisation と同じような意味で異なっているのだ(註2)。舞台美術はたとえ書割であろうとも、縮尺比は(見かけ上)実寸でなければ用をなさない。ところがジオラマは現実(どこかにある自然の景観)と1:1の対応関係を持たない(註3)。
 あるいは、他のペニノ作品にしばしば出演する「小さい人」マメ山田タニノクロウにとって彼の存在は、いわば、脳内の妄想イメージの「先取りされた実体化」なのだろう。タニノ的には、自分の想像物(であるはずのものが)が既に存在していた!という感じだろうか。私はずいぶん前に「世界一小さいマジシャン・マメ山田」と名乗る彼のマジックを見たことがある。それがまた、5回のうち4回は失敗する、という何ともなシロモノであった。「小さな人が失敗するばかりの手品を見せられる」というのは、既にして「ペニノ」的映像ではないか。(註4)
 かくして、「演技」や俳優の「存在」、舞台の空間「造形」、これら全てが、通常の演劇作品の成り立ち方とは異なり、「現実」が投影された世界、「現実」の再現(再現前 representation)ではなく、実在しないイメージの「実体化 actalisation」を図るために、「現実」をシャットアウトするように機能することによって成立しているのが『苛々する大人の絵本』ということになる。そしてそこでは、通常の演劇の「現実→虚構(上演=再現)」に対して「妄想(非現実)→実体化(実演!)」というように、前後関係のベクトルが逆になっている。本末転倒、倒立した「演劇」?
うーむ。
おずおずと「芸術」という言葉を口にしてみる。「芸術」? そう「芸術」だな。外部に参照項を一切もたないで成立している、それこそ「純粋芸術」ってことじゃないか(笑)。OK、「ペニノは芸術」ってことで決まり!「マスターピース」と言うにはそうとう歪んでいるが。今日この場所の演劇、ペニノの立ち位置であろう「小劇場演劇」では、「この場所の<リアル>を切り取れ」「ニート問題を扱え」「9.11以後の世界情勢を読み込め」とか「実験的であれ」「新奇であれ」「来る10年代を先取りせよ」等々、目白押しの注文いや「圧力」に応答するのに汲々としているかに見える(「圧力」が一番低いように見える「エンタメ」系にしても、「癒して」「泣かせろ」とか「ウォームハートな“ちょっといい話”にしてね」とか言いやがる)。とにもかくにも「役に立て」という圧力。何とも五月蝿いことよ(5)。形而下のことは家来に任せておけ、「現実 リアル」? そんなものは犬にでも食わせろ、芸術万歳! (註5)

(初出:『Revue House』第2号 2008年)


【脚註】

(1)このわけのわからない「物語」を、例えば精神分析的に「解釈」することは出来るだろうが、それをしたところで、そこから得られるものは、思春期の受験生の性欲やプレッシャーといった「しょーもない」ことでしかないだろう。

(2)ジオラマはたしかにもともとは「現実」(自然の景観)を参照先としていたとも言えるが、この舞台に設置されたジオラマは「レディ・メイド」と考えるべきではないだろうか。元の「文脈」(社会に要請され世の中に存在するジオラマ一般が本来持つ用途)を奪われ、無意味にそこに「ただある」ジオラマ、それは「俺、ジオラマですけど何か?」と呟いているようだ。あるいは、ラストシーンでごちそうとして(?)銀の皿に載せられたシカの頭が登場するが、それはあからさまにどこかの家の応接間から持って来た「シカの頭の剥製」である。「シカの頭の丸焼き」の「代理物representation」ではない、ということだ。

(3)この世界(作品)が強度をもつには、舞台空間やモノのサイズ、さらには観客との「距離」が重要となる、このことに関して「傍証」として挙げておきたいのが、2004年に西新宿の空き地で上演されたペニノの『黒いOL』だ。その舞台空間は地下坑道(驚異の地底人国のOLの職場?)で、やはり尋常ならざる熱意とエネルギーによって見事に作り上げられたのだが、地面を掘削しコンクリートで固められたその洞窟は、「原寸大」の(ゆえに)(単に大掛かりな)「舞台美術」として機能してしまったのだ。たしかに「舞台美術」としては破格の造作物と言えるが、やはりそれは「舞台美術」でしかない。そして観客は洞窟の手前から、相当に奥のほうまで伸びた舞台で行われるあれこれを「遠くから」鑑賞することになる。実際の距離は心理的距離でもある(実を言えば、さほどの距離と言うわけではないのだが、心理的には普通の演劇の上演される大劇場の最後部の席のように、「遠く」感じられた)。観客の態度は一歩退いた場所からの理性的な観察にならざるを得ない。かくして、『黒いOL』における観客は、まさに『苛々する』の真逆、「実物大」の「舞台美術」(≠ジオラマ等の「実物」)と「距離」の存在により、その(今思い返せば)相当に奇妙な物語にも没入(強制的な鑑賞)ができない、どうにも気が散り、せっかくのタニノの「世界」を享受できない状態に留め置かれるのだった。

(4)ところが、じつは、それらの舞台は『苛々する』と異なり、一見「普通の演劇」のような体裁を持っており、するとマメ山田は、たとえば「ペーソス溢れるホームドラマ」に何故か闖入してしまった(何らの必然性なく存在する)異物ということになる。彼(だけ)は「本物」の「小さい人」なので、作品世界全体の「寸法」、representation のレベルの整合性が狂ってしまうのだ。それでも、彼の放つ異物感が形成する磁場のようなものが、舞台全体を浸食し、歪ませ、その「失敗した(?)リアリズム演劇」状の劇空間を奇妙だがどうにも魅力的な「珍味」にすることに成功していることは確かなのだが。
 逆に、「苛々する」にマメ山田が出演していないのは、おかしい(もったいない)ように思えるが、よく考えると当然のことかもしれない。彼を起用した場合、他の人物、すくなくとも床上の女二人も「小さい人」でなければ、実際に行われた上演と同等の、あるいはそれを上回る成功は望めないだろう。それ以前に、現実問題として、ちょっと無理そうだ。

(5)どう見ても「ごくつぶし」なというか「下流」の臭いがプンプンする役者(?)たちの「こりゃダメだ」な「腐れ演技」で、「ジャンキー」の見ている「幻覚」の風景(目の前に「実体化」しているイメージ!)のようにナンセンス&シュルレアルな、しかも「オチ」があるとかないとか言う暇もなく瞬時に終わってしまうコントを速射(一舞台に40本!)する鉄割アルバトロスケットもまた「演劇」というにはあまりにも「役立たず」である。
 あるいは、任意の無駄話(無意味な台詞)をサンプリングして構成されたチェルフィッチュ岡田利規)の『クーラー』や、意味内容がすべて吹き飛んでしまう程に超スピードで台詞が飛び交う矢内原美邦の『五人姉妹』は、『苛々する大人の絵本』とはまた別の方法で演劇を「純粋芸術」化することに成功している数少ない作品だ。そこでは、ストーリーを追うことや、台詞の逐一を聞き漏らすまいと神経を使うことを免除されることにより、極言すると、観客はそこに生起する「グルーヴ」に身を任せているだけでOKという、音楽やダンスの特権とされる受容が成立していた。実は『クーラー』に関して、岡田自身は「ダンス」作品と定義しているのだが、最近の岡田演劇の方法の変化を見ると、こうした方向性に向かっているようにも思われるのだ。チェルフィッチュは一時「格差社会を批評するニート演劇」といった語られ方をされたりもしたが、もちろん岡田演劇の本質は最初からそのような皮相なものではない。ただ、そうした「読み」を誘発せざるを得ないのが、演劇の社会的立場、ということは確かだろう。
 現実の「劣化コピー」としての表象によって単なる現実の追認をしているような演劇も、観客(と批評)の「そういうこと、あるよね!」「こういうヤツっているいる!」「だよね、共感!」に支えられて成立してしまう。とりわけ、「露悪」的な過激さをもって「リアル」を標榜する(「この現実を見よ!」)類の演劇など、現実社会の“「現実」への逃避”(大澤真幸)という現象の、そのまた代理ー表象なのだが、それだけに批評にとっては相当に重宝な「おいしいネタ」ということに相成るわけだ。ホント、「世間」ってヤツは.......。

『赤レンガダンスクロッシング for Ko Murobushi』

2016年2月20,21『赤レンガダンスクロッシング for Ko Murobushi』@赤レンガ倉庫

SideA
スガダイロー(ピアノ)× ucnv(映像)× パードン木村(DubMix) (20日)/空間現代 × ucnv(21日)
岡田利規
core of bells
捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子
<休憩>
Side B
呑むズ(美川俊治、HIKO、大谷能生)×伊東篤宏(20日)/山川冬樹×JUBE×大谷能生(21日)
川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ
飴屋法水


キュレーション:桜井圭介+大谷能生




岡田利規クワイエット、コンフォート(仮)』
作・出演:岡田利規
映像:須藤崇規
協力:プリコグ



core of bells 『遊戯の終わり』

core of bellsは、近年、あらゆる表現の形式から実人生までも纏め上げるつまみ食い的な制作に磨きをかけながら、観客と共に過ごす時間についての思索を巡らせて来ました。その思索はかたちを変え時代も空間も越えながら蝶のようにひらひらと舞い、僕たちを翻弄します。それでも、しぶとく追い続け、舞い降りたところをつまみあげました。その間にも時間は刻一刻と過ぎ去って行くのです。最新作です。

出演:大塚美保子/徳原彩音伊藤真希子/久保田翠(20日)/田上望(20日)/水島ゆめ(21日)/小林絵美子(21日のみ)
脚本・演出:core of bells


捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子

3/14 thu. 
Painted Bride Art Center -初日。小屋入り前、タクシーを飛ばして、Phiradelphia Museumへ。デュシャンのコレクション。遺作の「沈黙」と「ノイズ」の絶妙の混ざり合い・・・幸せな気分で3回も覗いてた。「独身者の花嫁」のガラスは見事にヒビ割れていた!(これは今夜の自分の踊りに確実に共鳴。)
(JCDN日米振付家交換レジデンシープロジェクト 日誌から by室伏鴻
先月、フィラデルフィア美術館でデュシャンの“大ガラス”を、ムター博物館で石鹸化した人体を見た。“大ガラス”のヒビと、死体=DEAD BODYと、室伏鴻の記憶が響きあっている。(捩子ぴじん)

ダンス:捩子ぴじん
ゾンビ音楽:安野太郎
粉:志賀理江子
衣装協力:藤谷香子(FAIFAI)



川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ

室伏さんに会ったことはない。作品は桜井さんが企画していた吾妻橋で一度だけ観たきりだ。わたしが最初に「知った」のはおわかれの会のときのことで、わたしはなぜか、その場に居て、いや、なぜか、ではなく、一緒に作品をよく作っている大谷能生さんが、そういうしめっぽいお別れの会とか行きたくないんだけど的なことを言ったのですが、なぜか、そのときのわたしは、なぜか、強く、一緒に行こうよと誘った。そのなぜかはなんなのかいまでもわからないけれど、なぜか強く思って、そういう行動をとった。草月ホールでみたものはわたしの記憶に強く残り、出合える機会はいくらでもあったのに、出合えなかったことについて、ひどく考え込んだ。その日、渡辺さんはなんどもなんどもワインを運んでいて、わたしは少し飲み過ぎた。あのときの、彼女の言葉は、いまでも、すべて、憶えている。

身体をつかった表現はいくら記録しても、再生できない。ひとびとの記憶の中にしか、残らない。それはそのひとそれぞれのものであり、同じ記憶を辿ることはできない。わたしだけのものにできる。

その日、桜井さんに会い、室伏さんのことを話しはじめた、大谷さんは目の前で慟哭し、泣き崩れた。大の大人が慟哭する瞬間を見たのは二度目であったが、それでもその姿に反射的に胸を打たれ、わたしが死んだらこの人はこんなふうに泣くのだろうかと、意地悪な気持ちが芽生えた。だから、わたしはそれをひとごとのように見ていたけれど、わたしは使役の役割をはたしたのだと、少し誇らしげだ。プロスペローの慟哭をシェイクスピアは書かなかったがわたしは知っている。

わたしはその場にいるのにいないような気がしていて、いまも同じようにこうして、すこし離れた場所で輪の中に加われない。知っているもの、知らないものと分け隔てられているのだろうか。生きているもの、死んでいるものと分け隔てられるように。その壁は外され、外へと向けられればいい。

今回の、この、はなしがきたときに、わたしが断らなかった。知らないのなら、関わるな。ぐるぐるとしながら、きっとどこかで、誰かを誘うための口実を、わたしは探っていたのだ。そのきっかけを与えてくれたのだろうか。パーティは終わってしまうし、そのパーティーにわたしは関われない。それでも、いいの?
とわたしは問いかける。

居ない人を強く思う。不在がこの作品のテーマだ。わたしは、亡くなったともだちや家族やこのあと出合えたかもしれない誰かのことを憶いながら誰もいなくなった赤レンガにいま、いる。

あなたがいる世界も、あなたがいない世界も両方わたしは知っている。

作・演出 吉田アミ(吉は土口)
音楽・吉田隆一、吉田アミ
出演 岩渕貞太、川口隆夫、大橋可也

室伏さん、機会を与えてくださって、感謝しています。


飴屋法水 スタンダップエッセイ「メキシコ」
出演:飴屋法水
映像制作:池田野歩
アシスト:西島亜紀、コロスケ.

超連結クリエイション「障害(者)とダンスを連結させて未来のダンスを制作してください」

超連結クリエイション「障害(者)とダンスを連結させて未来のダンスを制作してください」
(1/24 京都造形大sutudio21)。
http://www.bonus.dance/creation/32/

障害(者)(と)ダンス、と聞いて、過去に観たそれ的なものを色々思い出して、「うーん、それやるのか〜」と微妙に腰が引けたのだが、たまたま仕事で京都に行ったので見てみることに。
「それ的なもの」というのはつまり、コラボレーションだと「ボランティア的な感じ/上から目線・下手に出る的な感じ」、障害者自身による場合は「健常者もかなわない驚異の身体技披露/必死さ・けなげさの利用」、そして「感動をありがとう」に収斂させる的なあの感じで、いずれにせよ、ディレクション・共演の健常者も健常者としての観客=私も、障害者との「非対称性」を感じさせられることから来る「気まずさ」を抱えざるをえないのだった。
ところが、今回はそうならなかった。企画者と参加した人たちに感謝と敬意を表したい。
以下、メモ状態だが、書き留めておく。

■ 砂連尾理・熊谷晋一郎「随意と不随意の境界線を眩く」
YCAMの開発したモーション・キャプチャーデータをパラメータで色んなイメージ&ムーヴメントに変形してアウトプットするソフトを使ったもの。ものすごく大雑把に言えば「びっくりハウスの鏡」。
自己像とかけ離れた鏡像上の身体を自己の身体で操作する。人間はそもそも鏡像=自己像にアイデンティファイすることで主体を確立するわけだから、既にある自己(像)認識を更新して新しい主体の出現をもたらす。自己の解体・更新。
その時、障害者も健常者もプロのダンサーも、同一平面に立たされる。自他の(身体能力の)優劣の解体あるいは無化。非対称性から差異の多様化へ。
さらにソフト内の設定によって、2つの身体データを掛け合わせて一個の身体像を作り、それを砂連尾と熊谷が「協働」して動かすという試みも。自・他の境界の撹乱・無化。

■ 野上絹代「『自意識』『解体』『コミュニケーション』をテーマにしたツールの開発』
健常者が下半身が不自由な車椅子生活者と一緒に遊ぶための「(立体版)ツイスターゲーム」=対戦型ゲームの開発。色々試行した結果、狭い円筒形の部屋の壁面に設置されたターゲットにルーレットの指示に従ってアプローチ(取る、掴む、引っ張る等々)するという形に。健常者も車椅子利用者もほぼ同程度に大変なアクションをこなすことになる。大変さの程度は同じ、しかし、引き出される「動き」の質は異なる、という異なる者どうしの共生が具現化されていた。非対称性から差異の多様化へ。

■ 塚原悠也『良識とパンクに関して』
彼の場合は障害者との協働という方法は取らない。
しかしながら、身体障害者ではなく知的障害者でもなく、精神障害者という一番タブーとされている・アクセスしづらい「他者」を扱ったことが特筆すべき第一点。
いつも線路ぎわで通過する電車に向かって奇妙な手振りで「会話」をしているおじさん。彼は統合失調症と思われる。そしてなおかつホームレス。つまり障害者かつ生活困窮者という二重の(社会的)弱者。
彼のその「日課」風景を撮った映像がプロジェクションされる中、その、ダンスにも見えなくない不可思議な身振りを模倣しながらサッカー(2人で玉の取り合い)をする、というのが当日の上演であった。障害者の身振り/ダンス/サッカーの同一視?少なくとも混合状態。
(社会的)弱者、の身体・行為との同期。
社会生活=合目的性を要請される局面(サッカーはどちらかというとそっちなのか、いや両方に跨っている)で正しい身の処し方ではない動き、役に立たない行為(ダンスや電波系ブロックサイン)。
さらにそこにもう一つ、2ちゃんねるの「精神障害者福祉手帳」板の書き込みをプロジェクション。そこでは「どうやって精神障害のフリをして手帳ゲットするか」延々と会話しているのだが、フリ・マネをする、振り=ダンスするという作品コンセプトへの斜めからの注釈になっている?
というようなかなりヤバい、ギリギリアウトなライン上で、つまり、ゴンゾジャーナリズム的な方法によって、しかし、いずれにせよ「他者」(の身体を模倣すること、想像的に)との交換可能性、さらには共生の可能性を“真面目に”試みていたと言える。

お詫び

去る9月27日にツイッター上で私は、荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」について、
「いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)」
と、ツイートしました。
このツイートは、私の誤りでした。荒川氏に謝罪するとともに、言論人としてこのようなツイートをしてしまったことを反省します。

・まず、田中功起氏が書いてくれたように https://twitter.com/kktnk/status/516244802124644352
「批評家には実際に見て判断してほしいと思う。パフォーマティブなプロジェクトならばなおさら。」
作品を見てもいないのに判断を下したこと、これはまったく不誠実で誤りでした。

・さらに、甚だしい事実誤認をしていました。
私はこの記事を読んでツイートしたのですが、http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/25/frieze-london-fukushima-soup_n_5886086.html
荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」は、既にロンドンで展示=パフォーマンスが実施されていると「思い込んで」しまいました。実際は、まだ開催されていないアート・フェアのための「プロポーザル」でしかなかった。記事を改めて読めばすぐさまそうと分かるのですが、何故かそう思い込んでしまった。弁解の余地のない誤りです。

・また、別のツイートで、福島の問題は、ロンドンで行なっても(理解のよすがとなるような)「コンテクスト」がないからダメ、https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515795021644046336
と書きましたが、これも、田中巧起さんの言うように https://twitter.com/kktnk/status/516245425226276864
相応のコンテクストはある。想像力が欠如していました。

・以下に書くことは、まったくの単なる「言い訳」です。自分がなぜ間違いをおかしたのを反省するために書きます。

当該ツイートは、その前に書いたツイートの続きとして書きました。それで文頭が「いっぽうで」となっています。
https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515551670768398336
並べてみます。
反戦展」@ SNOW contemporary 見てきた、というか、やはりこの場合、参加してきた、というべきで、つまり、反戦デモに参加してきた、というのと同じ。通常「デモには参加、展覧会では見る」、なわけだけど。今回は「見る=批評する」ことは出来ていないし出来ない。
いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)

つまり、一個目のツイートは、「自分がその内側、渦中にいる場合、それを批評することが出来ない場合がある」と言っている。これもある意味、批評の敗北、否定のようなものなので、よくない発言だったかもと反省していますが、これは個人的な「実感」なので仕方がないことです。そして「芸術有理」「アート無罪」を一部肯定している。
で、次のツイートにつながります。今度は、逆に、実際に見てもいないものに対して、外側から批判をしている。しかも「しなければいけない」とさえ思っている。→「芸術有理」「アート無罪」を否定。矛盾しています。前のツイートをエクスキューズしているつもりがそうなっていない。おそらく先ごろの藤田直哉氏の『前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題』を巡る論議のことが頭にあって、「こうしたものがアートに対する信頼を損ねるのだ」と、実際を見てもいないくせに、感情的に断定してしまったとしかいいようがありません。
それから、また別のツイートで https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515799900227788800
「科学的に安全」といったデータが与えられてもなお「感情がいうことをきかない」というようなありふれた「真理」を言うために、わざわざ福島を持ち出すな、と。
と書きました。これは、荒川氏へのインタヴュー記事 http://www.oralarthistory.org/archives/arakawa_ei/interview_01.php
を読んだりして、彼の関心が、どちらかというと、個々の事象ではなく「人びとの反応」にある、と感じたことから、福島を心理実験のネタにしやがって、とこれまた感情的にツイートしました。前述したように、たとえそのような(不純な?)動機であってもコンテクストがあれば「効果」として、(原発)問題提起になり得るわけですから、結果が出ていないのに判断するべきでなかったと思います。
最後に、もう一度整理して、自己分析=自己批判すると、
・基本的には芸術の社会に対する力を信じたいと思っているにもかかわらず、その無力さを感じてしまう今日このごろ。
・基本的には芸術の社会に対する自律性を擁護しなければいけないと思っているにもかかわらず、社会内存在としての自分が、そのことを倫理的に糾弾してしまうような事態に陥っている今日このごろ。
・物質的作品だけではなくプロセスやコンセプト(コンセプチャル・アートに限らず)アートを擁護したいと思っているにもかかわらず、いやむしろそのことによって、今回のようにコンセプトだけで評価を下す間違いを犯すことになってしまった。

以上、長くなりましたので、今日はこのへんで。引き続き、考えていく所存です。

チェルフィッチュ『地面と床』

※以下の文章は、2013年5月に雑誌『ケトル』のレビュー・ページ用に執筆したものである。

 チェルフィッチュの新作『地面と床』について書く。といっても、じつはベルギーでの初演に向け出発する直前の最終「通し稽古」を観ただけなのだけど。それでもこれを書きたいと思ったのは、今ここの表現として、そして「演劇」として、すこぶる刺激的だったからだ。
 舞台設定は「そう遠くない未来の日本」。務めていた工場が海外移転して以来無職の弟は、死んだ母の墓を守っていたが、 半年前に政権が変わり景気が上向いてきたからか、ようやく「壊れた道路を治す工事」の仕事を得る。いっぽう兄は既に独立し立派な家庭を築いているが、「漠然とした不安」の反映だろうか、中国軍が日本に攻めて来るという夢を見たりする。その妻は妊娠中で、生まれてくる子供にとってこの国はかなり良くないのではないかと考えている。さらに、夫婦には「ひきこもり」で行方不明らしい友人が1人いて、彼女は妻の夢の中に出てきたりする。 そして、母親の「幽霊」が子供達や自分の眠るこの場所の行く末が気がかりで、あたりをうろうろと徘徊している!
 ここで扱われているのはまさに、震災と原発事故後の日本を生きる2013年の僕たちの「生活と意見」と言えるあれこれに他ならない。しかも驚くほどストレート(ベタ)な。
 いっぽう、「内容」のベタさに対して、その「話法」のほうはきわめて方法的だ。ここでは通常の演劇のように物語=ドラマが起承転結しない。そのかわりに、さまざまな「声」(さまざまな立場と価値観、それぞれの意見)が順次「併置」されていく。さらに死者(過去)と生者(現在)と生まれてくる子供(未来)が、同一の舞台に並んで存在している。 ちなみに、浮遊霊ということになっている母親だけではなく、しばしばその場面には登場していないと思われる役の俳優が舞台上をフラフラしている。その奇妙な仕草は、きわめて魅力的な「ダンス」と言ってもよいかもしれない。
というわけで、観る者の頭の中には、声や音や身体が、そしてそれらが担う思念が、「幽霊」のように浮遊する「空間」が生成されていく。本来は時間の芸術であるはずの演劇が、あたかもインスタレーション展示のような、「空間」として把握されるのだ。
 大事なことを忘れていた。この作品にはバンド「サンガツ」が音楽で参加しており、それも単なるBGMとしてではなく俳優の言葉=声/身体と同等の存在として併置されている。 その音たちもまた時間を推進させることなく空間に浮遊しているのだった。そう、まさにこれは「アンビエント演劇」と言うべきかもしれない。
 それにしても、一つの「結論」へ向かって導かれていくことなく行き場もなく漂う思考たちを思考してばかり、それはまるで今の私たち。何故そうなってしまったのか? 震災以後、死者や未来の子供の声が聴こえるようになってしまったからだ。

2013年06月09日のツイート

2013年06月08日のツイート