杉原邦生演出『14歳の国』(宮沢章夫作)

何ともビミョーな気分で観ていた。というのも、僕はこの戯曲の初演、というかオリジナル版のスタッフ(作曲)だった。で、内容というかセリフの一言一言もかなり記憶の底に残っており、初演のキャストがどういうふうに演じていたかも含め「不必要なまでに」ダブってしまう。しかも、僕のすぐ斜め後ろの席に宮沢さんが(笑)。そういうわけで前半は「雑だな」というのが、主たる感想だった。よくあることだが、俳優達はなんとか「それらしい」感じに演技しようとしているのだが、それが却って煩わしく見えてしまう、演出が弱いのかな、と。これも個人的なアレだが、何でコージ(快快の)なんだよ、ミスキャストじゃないのか?とかも思う。
ところが、さほど長くかからず(端折ってるので)後半にいたり、カメラ本体が登場するとともに舞台はみるみる「大変なこと」になっていく。それでも、最初は「何だよ、チェルフィッチュですか、それとも第二期遊園地ってか?」などとのんきに(高みから)苦笑していた俺。どうやら事態が飲み込めた途端、僕は青ざめた。そこで目論まれているのは『14歳の国』という戯曲の「ネタ」化だった。それで前半の腐れ芝居だったのか!チェルじゃなくて「シベ少」だったか、という負け惜しみも苦し紛れに吐くも既に遅し。「動物化」(東浩紀)したコージが暴走し仲間(?)を刺し、後ろを向いてケツを出し、一人「狂ったように」踊りまくるのだった。その汗に輝くコージの身体は本当に美しかった。俺はゲイじゃないけど。精神的レイプの快感に負けつつも(?)、断末魔の捨て台詞はつい口をつく。「ポ、ポ、ポツかよ?」。終幕、口上「これで終わりまます、『26歳の国』はこれで終わりです」。
痺れた頭で整理する。即ちーーー
・これは「親殺し」である。親とはまた「師」のことでもあるだろう。自分に先行する(世代の作家の)演劇への応答、それが「ネタ化」でしかありえないのは、殺される者にとってはまた別の辛さがある(こっちにとっては理不尽ですから、酷ですから)。
・これは、上の世代の「自分たちに向けたレッテル貼り」への応答である。コージの暴走は、26歳の者が作る演劇の舞台上での暴走であり、12年たった今「そんなに言うなら、キレて見せてやるよ、ホラ、あんたらが見たいのは、コレだろ? ホラ、見ろよ!」、と。だから最後にあかされた本当のタイトルが『26歳の国』なのだ。無論、その「キレる」のは、演技である、ネタ(冗談)である。でも、「心情溢るる」行為。リアルがこぼれる身体。ここらへんのところは、演劇(内)の問題と我々の生きるこの社会の問題とが込み入った状態で折り込まれており、もう少し整理して考えてみる必要がある。まあ、49歳の俺が26歳のことをあんまりマジに考えるのもどうかとも思うわけだけどね。