最近みたもの 8/23〜9/10

8/23(土)イデビアン・クルー『排気口』世田谷パブリックシアター
もちろん堪能した。けど、途中でこちらの集中が限界に達してしまった。何故か? とにかく振付が偏執的に細かいのだ。いつにもましてびっしり詰まっている! 言い方を変えると「抜き」がない、ってことでもある。井手くんには空間恐怖みたいなのがあるのかも。あと、安藤洋子のフィーチャーリングはあまり意味がなかったような。いや、彼女じしんはすごく楽しそうに踊ってたからいいけど。
8/28(木)ファビアン・プリオヴィエ&バレエ・ノア『紙ひこうき』
世田谷パブリックシアター
女子高生たちはよく健闘していた。大舞台にも全然負けていない。が、表面的にはバウシュ的な、と言えるであろう、このプリオヴィエの振付はどうなんだろう。もっと生な情動の発露としてのダンスが可能なはずだという感は拭えない(矢内原美邦、あるいは黒田育世だったらよかったのに?)。
まずバウシュ的な世界と今どきの女子高生のリアルはまあ常識的に考えてストレートには結びつかない。バウシュの「大人の女の孤独とか生きづらさ=煎じ詰めると性的関係性の問題」と、「女子校という奇妙なホモソーシャル共同体のなかのアドレッセンス期特有のトピック、そして今の日本の社会全般の基底に横たわる病理、とまではいかずとも「時代の気分」、の合わさったティーン女子の実存の問題」とは相当違う、ということだ。
(かつての)バウシュの精神分析的な手法は、「現実的なるもの」「unheimlichなもの」を露呈させることに成功したわけだが、プリオヴィエのアプローチはどちらかというと心理学&社会学的な「分析=整理」。「(比較的)物わかりのいい大人」が、咀嚼しやすいかたちに“フレーミング”してやることで、アクティングアウトを促された女子高生の「リアル」といった感じだろうか? いや、それは二律背反、象徴化作用では「現実的なるもの」の露呈は無理だ、というのは、精神分析の立場としては、ってことだが。
まあ、「お前が若者を語るな!」(後藤和智)ってとこでは自分(48歳)も人のことは言えないんですけどね。
8/30(土)サンプル『家族の肖像』@五反田ヘリコプター
 ワンダーランドの400字のクロスレヴューに書いたけど、ちょっとだけ訂正すると、「ラストシーンのその先をこそ見たい」というのは実際のラストシーンというより、その手前、クライマックスシーンの「でんぐり返り」の先、という意味です。ただ、「家族の肖像」というタイトルの意味は、作り手側としては、どうも「でんぐり返り」の前まで、「でんぐり返り」するしかないところまで追いつめられた人たちの「関係/無関係」を指していたようで、そうだとすると、「ないものねだり」ってことかもしれない。
あと、役者はみんな達者だし丁寧に芝居してくれてました(が、その「巧さ」が、この劇においては果たしてプラスなのかどうか、という問題はある)。
8/30(土)半田真規『August』@児玉画廊
初日のオープニングだったが、作り込みが間に合わなかった由。ほぼ完成状態。しかし、これはスゴイよ。色とりどりの半透明のプラスチック建材で作った多面体のバラック。なんだけど、模型にかいてあった数字をふとみたらある面には144とかヘーキで書いてある。もっとあるかもしれない。一個一個の面のかたちが全部違う、計算とかしてないんだろうな、すげー無理矢理な建て方だと思う。たとえば、フラードームは何面体かしらないけど、あれはちゃんと「正」○○面体だし、シュタナーの建築はデコボコはしてるけど、そんなに面の数は多くないよね。ただ、ギャラリーのキューブのなかに目一杯の大きさで建ててるので、退いて見れない、「全景」というのが見れないんですね。そこがちょっと残念。
8/30(土)Chim↑Pom『友情か友喰いか友倒れか』@ヒロミヨシイ
最終日。カラスのカアくんは既にお亡くなりになり、唐揚げにして供養された後、剥製にされていました。ネズミは元気に走り回っていた。19時、ついに屋根が壊され、梯子がかけられる。生還した水野くんが意外と元気で小ぎれいなのに驚く。が、彼の苦難はまだまだ続くわけだなー、10月の吾妻橋DXのアレもあるし。
9/3(水)『EKKKYOー!』スズナ
出演:ピンク、山縣家、快快、富士山アネット、FUKAI PRODUCE 羽衣、夙川アトム
「FUKAI PRODUCE 羽衣」が気になった。「アングラ芝居」のテイスト。本気なのか冗談なのかが微妙なところでわからないのがいいのかも。そこが「毛皮族」(なんちゃってアングラ、苦手です)と違う。どっちかに転んじゃってたら、絶対見たくない代物。
「快快」はラストシーンがすごくよかった。僕の嫌いな落とし方、「泣かせ」なんだけど、それも珍しくOKだった。ただ、その「オチを最大限に効果的にする」ために、それまでの運び(&演技スタイル)を抑制するというのは、わかるんだけど、うーん。あ、これって「シベ少」と同じようなギミックじゃん、もちろんスタイルは全然ちがうけど。最後の「ドッカーン」のためにその前まで「がまん」させられるのは、ちょっとだけ不満。って、俺、わがまま?
9/10(木)DIRECT CONTACT Vol.2@月島TEMPORARY CONTEMPORARY
大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」
以前ここで観た鈴木ユキオにも感じたことだが、ギャラリーの「ホワイトキューブ」はダンスのクオリティにかかわらず、どうも、さま(スタイリッシュ)になり易過ぎるのかもしれない。ダンスにとってはある意味危険な特性かも。ボーっと見ていられる。鑑賞のモードが無時間というか非リニアというかスティル(静物)的把握に。作品じたいの強度が軽減される、観客側から言えば、微細な「運動」への注意が減じる。ということで、大橋作品については今回は保留。いや、全然悪い感じではなかったけどね。
秋山徹次「The Stake (for acoustic guitar and electronics)」
演奏: 秋山徹次(acoustic guitar)、中村としまる(no-input mixing board)
秋山徹次が淡々とギターをつまびく。途中から中村としまるのノイズが「介入」してくる。で、遂にはギターの音が中村のノイズに覆われ全く聞こえなくなる。それでも秋山はギターを引き続ける。ところが、自分の頭の中でギターの音が鳴るのだ。幻聴というか、捏造=作曲というか。ちょっと得難い体験だった。