さいきん見た舞台

忙しい。さいきん見た舞台のことについてちょっとだけ書いておく。忘れちゃうから。
・三浦基『三人姉妹』……期待通り素晴らしい舞台であった。もちろん『じゃぐち』よりはるかに面白い。ちょっと気になったのは、例のセリフを間違ったところで区切る方法をはじめとして、あの手この手で非「フツーの話し方」にアプローチするわけだが、そうすると、その選択は「恣意的」「任意」の選択ということになり、たとえばそのなかの一つとして「関東訛り」とかまで出てくると、え?という感じもしないではない。つまりは妥当性、という問題だな。
庭劇団ペニノ『黒いOL』……色んな意味で言うが、一言、呆れた。演劇、公演という形態である必然はまったくない。傾ける情熱の方向性が間違った方に向かっている。インスタレーションだと言われて見に行って、インスタレーションとして見る、つまり、都合のいい時間にブラリと出かけて、5分で見終わって帰る、というのなら、ノープロブレムだっただろう。間違って演劇という職種に就いてしまった人がいて、まわりが余りにおだててたり買いかぶったりするので、間違いに気づかないで働いている、ということ。そんなありえないことがありえてしまうのが、今の演劇界のマニエリスムってことなんだろうか。特にもうフツーじゃ満足出来ないというスレっからしの演劇愛好家というのがそれなりにいて、それで、「ヘンである」というただそれだけでもうよだれたらして喜んじゃうという「パブロフの犬」状態で、クオリティは問われない。ポツドールとかチェルフィッチュとか三浦基が「受ける」というのは、実はそういう状況ゆえだったりして。マズいじゃん。
室伏鴻 Ko&Edge 『始原児』‥…若者3人で踊る部分、ますます『身体表現サークル』に接近しているよ。(男性の)身体の即物性(=無能性)。
白井剛『質量, Slide ,&.』……強迫神経症の人(がクスリでハイになってる?)の部屋を覗き見してるみたいだった。何か(モノ)に拘泥する(関係する、とらわれる)、ということ。天井から吊るされた皮の紐と、まるで女とのようにSMチック(交互に役割が反転するプレイ)に踊る「デュオ」がすばらしかった。