超連結クリエイション「障害(者)とダンスを連結させて未来のダンスを制作してください」

超連結クリエイション「障害(者)とダンスを連結させて未来のダンスを制作してください」
(1/24 京都造形大sutudio21)。
http://www.bonus.dance/creation/32/

障害(者)(と)ダンス、と聞いて、過去に観たそれ的なものを色々思い出して、「うーん、それやるのか〜」と微妙に腰が引けたのだが、たまたま仕事で京都に行ったので見てみることに。
「それ的なもの」というのはつまり、コラボレーションだと「ボランティア的な感じ/上から目線・下手に出る的な感じ」、障害者自身による場合は「健常者もかなわない驚異の身体技披露/必死さ・けなげさの利用」、そして「感動をありがとう」に収斂させる的なあの感じで、いずれにせよ、ディレクション・共演の健常者も健常者としての観客=私も、障害者との「非対称性」を感じさせられることから来る「気まずさ」を抱えざるをえないのだった。
ところが、今回はそうならなかった。企画者と参加した人たちに感謝と敬意を表したい。
以下、メモ状態だが、書き留めておく。

■ 砂連尾理・熊谷晋一郎「随意と不随意の境界線を眩く」
YCAMの開発したモーション・キャプチャーデータをパラメータで色んなイメージ&ムーヴメントに変形してアウトプットするソフトを使ったもの。ものすごく大雑把に言えば「びっくりハウスの鏡」。
自己像とかけ離れた鏡像上の身体を自己の身体で操作する。人間はそもそも鏡像=自己像にアイデンティファイすることで主体を確立するわけだから、既にある自己(像)認識を更新して新しい主体の出現をもたらす。自己の解体・更新。
その時、障害者も健常者もプロのダンサーも、同一平面に立たされる。自他の(身体能力の)優劣の解体あるいは無化。非対称性から差異の多様化へ。
さらにソフト内の設定によって、2つの身体データを掛け合わせて一個の身体像を作り、それを砂連尾と熊谷が「協働」して動かすという試みも。自・他の境界の撹乱・無化。

■ 野上絹代「『自意識』『解体』『コミュニケーション』をテーマにしたツールの開発』
健常者が下半身が不自由な車椅子生活者と一緒に遊ぶための「(立体版)ツイスターゲーム」=対戦型ゲームの開発。色々試行した結果、狭い円筒形の部屋の壁面に設置されたターゲットにルーレットの指示に従ってアプローチ(取る、掴む、引っ張る等々)するという形に。健常者も車椅子利用者もほぼ同程度に大変なアクションをこなすことになる。大変さの程度は同じ、しかし、引き出される「動き」の質は異なる、という異なる者どうしの共生が具現化されていた。非対称性から差異の多様化へ。

■ 塚原悠也『良識とパンクに関して』
彼の場合は障害者との協働という方法は取らない。
しかしながら、身体障害者ではなく知的障害者でもなく、精神障害者という一番タブーとされている・アクセスしづらい「他者」を扱ったことが特筆すべき第一点。
いつも線路ぎわで通過する電車に向かって奇妙な手振りで「会話」をしているおじさん。彼は統合失調症と思われる。そしてなおかつホームレス。つまり障害者かつ生活困窮者という二重の(社会的)弱者。
彼のその「日課」風景を撮った映像がプロジェクションされる中、その、ダンスにも見えなくない不可思議な身振りを模倣しながらサッカー(2人で玉の取り合い)をする、というのが当日の上演であった。障害者の身振り/ダンス/サッカーの同一視?少なくとも混合状態。
(社会的)弱者、の身体・行為との同期。
社会生活=合目的性を要請される局面(サッカーはどちらかというとそっちなのか、いや両方に跨っている)で正しい身の処し方ではない動き、役に立たない行為(ダンスや電波系ブロックサイン)。
さらにそこにもう一つ、2ちゃんねるの「精神障害者福祉手帳」板の書き込みをプロジェクション。そこでは「どうやって精神障害のフリをして手帳ゲットするか」延々と会話しているのだが、フリ・マネをする、振り=ダンスするという作品コンセプトへの斜めからの注釈になっている?
というようなかなりヤバい、ギリギリアウトなライン上で、つまり、ゴンゾジャーナリズム的な方法によって、しかし、いずれにせよ「他者」(の身体を模倣すること、想像的に)との交換可能性、さらには共生の可能性を“真面目に”試みていたと言える。

お詫び

去る9月27日にツイッター上で私は、荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」について、
「いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)」
と、ツイートしました。
このツイートは、私の誤りでした。荒川氏に謝罪するとともに、言論人としてこのようなツイートをしてしまったことを反省します。

・まず、田中功起氏が書いてくれたように https://twitter.com/kktnk/status/516244802124644352
「批評家には実際に見て判断してほしいと思う。パフォーマティブなプロジェクトならばなおさら。」
作品を見てもいないのに判断を下したこと、これはまったく不誠実で誤りでした。

・さらに、甚だしい事実誤認をしていました。
私はこの記事を読んでツイートしたのですが、http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/25/frieze-london-fukushima-soup_n_5886086.html
荒川医氏の「Does This Soup Taste Ambivalent?」は、既にロンドンで展示=パフォーマンスが実施されていると「思い込んで」しまいました。実際は、まだ開催されていないアート・フェアのための「プロポーザル」でしかなかった。記事を改めて読めばすぐさまそうと分かるのですが、何故かそう思い込んでしまった。弁解の余地のない誤りです。

・また、別のツイートで、福島の問題は、ロンドンで行なっても(理解のよすがとなるような)「コンテクスト」がないからダメ、https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515795021644046336
と書きましたが、これも、田中巧起さんの言うように https://twitter.com/kktnk/status/516245425226276864
相応のコンテクストはある。想像力が欠如していました。

・以下に書くことは、まったくの単なる「言い訳」です。自分がなぜ間違いをおかしたのを反省するために書きます。

当該ツイートは、その前に書いたツイートの続きとして書きました。それで文頭が「いっぽうで」となっています。
https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515551670768398336
並べてみます。
反戦展」@ SNOW contemporary 見てきた、というか、やはりこの場合、参加してきた、というべきで、つまり、反戦デモに参加してきた、というのと同じ。通常「デモには参加、展覧会では見る」、なわけだけど。今回は「見る=批評する」ことは出来ていないし出来ない。
いっぽう、ロンドンの「福島産野菜でスープ」のあれは、「芸術有理」「アート無罪」の最たるもの。作家本人に悪意はないだろうけれど、アーティストとして「才能」がない、ということ。だから罪深い。(せめて、自分自身でスープを飲み続けるパフォーマンスでもやってみせたら、と思う)

つまり、一個目のツイートは、「自分がその内側、渦中にいる場合、それを批評することが出来ない場合がある」と言っている。これもある意味、批評の敗北、否定のようなものなので、よくない発言だったかもと反省していますが、これは個人的な「実感」なので仕方がないことです。そして「芸術有理」「アート無罪」を一部肯定している。
で、次のツイートにつながります。今度は、逆に、実際に見てもいないものに対して、外側から批判をしている。しかも「しなければいけない」とさえ思っている。→「芸術有理」「アート無罪」を否定。矛盾しています。前のツイートをエクスキューズしているつもりがそうなっていない。おそらく先ごろの藤田直哉氏の『前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題』を巡る論議のことが頭にあって、「こうしたものがアートに対する信頼を損ねるのだ」と、実際を見てもいないくせに、感情的に断定してしまったとしかいいようがありません。
それから、また別のツイートで https://twitter.com/sakuraikeisuke/status/515799900227788800
「科学的に安全」といったデータが与えられてもなお「感情がいうことをきかない」というようなありふれた「真理」を言うために、わざわざ福島を持ち出すな、と。
と書きました。これは、荒川氏へのインタヴュー記事 http://www.oralarthistory.org/archives/arakawa_ei/interview_01.php
を読んだりして、彼の関心が、どちらかというと、個々の事象ではなく「人びとの反応」にある、と感じたことから、福島を心理実験のネタにしやがって、とこれまた感情的にツイートしました。前述したように、たとえそのような(不純な?)動機であってもコンテクストがあれば「効果」として、(原発)問題提起になり得るわけですから、結果が出ていないのに判断するべきでなかったと思います。
最後に、もう一度整理して、自己分析=自己批判すると、
・基本的には芸術の社会に対する力を信じたいと思っているにもかかわらず、その無力さを感じてしまう今日このごろ。
・基本的には芸術の社会に対する自律性を擁護しなければいけないと思っているにもかかわらず、社会内存在としての自分が、そのことを倫理的に糾弾してしまうような事態に陥っている今日このごろ。
・物質的作品だけではなくプロセスやコンセプト(コンセプチャル・アートに限らず)アートを擁護したいと思っているにもかかわらず、いやむしろそのことによって、今回のようにコンセプトだけで評価を下す間違いを犯すことになってしまった。

以上、長くなりましたので、今日はこのへんで。引き続き、考えていく所存です。

チェルフィッチュ『地面と床』

※以下の文章は、2013年5月に雑誌『ケトル』のレビュー・ページ用に執筆したものである。

 チェルフィッチュの新作『地面と床』について書く。といっても、じつはベルギーでの初演に向け出発する直前の最終「通し稽古」を観ただけなのだけど。それでもこれを書きたいと思ったのは、今ここの表現として、そして「演劇」として、すこぶる刺激的だったからだ。
 舞台設定は「そう遠くない未来の日本」。務めていた工場が海外移転して以来無職の弟は、死んだ母の墓を守っていたが、 半年前に政権が変わり景気が上向いてきたからか、ようやく「壊れた道路を治す工事」の仕事を得る。いっぽう兄は既に独立し立派な家庭を築いているが、「漠然とした不安」の反映だろうか、中国軍が日本に攻めて来るという夢を見たりする。その妻は妊娠中で、生まれてくる子供にとってこの国はかなり良くないのではないかと考えている。さらに、夫婦には「ひきこもり」で行方不明らしい友人が1人いて、彼女は妻の夢の中に出てきたりする。 そして、母親の「幽霊」が子供達や自分の眠るこの場所の行く末が気がかりで、あたりをうろうろと徘徊している!
 ここで扱われているのはまさに、震災と原発事故後の日本を生きる2013年の僕たちの「生活と意見」と言えるあれこれに他ならない。しかも驚くほどストレート(ベタ)な。
 いっぽう、「内容」のベタさに対して、その「話法」のほうはきわめて方法的だ。ここでは通常の演劇のように物語=ドラマが起承転結しない。そのかわりに、さまざまな「声」(さまざまな立場と価値観、それぞれの意見)が順次「併置」されていく。さらに死者(過去)と生者(現在)と生まれてくる子供(未来)が、同一の舞台に並んで存在している。 ちなみに、浮遊霊ということになっている母親だけではなく、しばしばその場面には登場していないと思われる役の俳優が舞台上をフラフラしている。その奇妙な仕草は、きわめて魅力的な「ダンス」と言ってもよいかもしれない。
というわけで、観る者の頭の中には、声や音や身体が、そしてそれらが担う思念が、「幽霊」のように浮遊する「空間」が生成されていく。本来は時間の芸術であるはずの演劇が、あたかもインスタレーション展示のような、「空間」として把握されるのだ。
 大事なことを忘れていた。この作品にはバンド「サンガツ」が音楽で参加しており、それも単なるBGMとしてではなく俳優の言葉=声/身体と同等の存在として併置されている。 その音たちもまた時間を推進させることなく空間に浮遊しているのだった。そう、まさにこれは「アンビエント演劇」と言うべきかもしれない。
 それにしても、一つの「結論」へ向かって導かれていくことなく行き場もなく漂う思考たちを思考してばかり、それはまるで今の私たち。何故そうなってしまったのか? 震災以後、死者や未来の子供の声が聴こえるようになってしまったからだ。

2013年06月09日のツイート

2013年06月08日のツイート

2013年06月07日のツイート

2013年06月05日のツイート