〈オペラ〉〜口実筆記のスタイル〜

プリンタ&スキャナを買い換えたら、おまけに文章読み取りソフトが付いてたので、試しに使ってみた。ちょっとだけ修正したけど、意外と賢かった。というわけで、まだワープロじゃなくて手書きで書いてた頃の原稿を1本。文体、青いです(笑)。


「〈オペラ〉〜口実筆記のスタイル〜」

 これから私の語ろうとしているその〈オペラ〉は、いわゆる“スペクタクル”としての、“バロッキズム”としての、“神話学”、“物語論”としての〈オペラ〉、あるいは“トータル・シアター”“ミクストメディア・パフォーマンス”といったもののモデルとしての〈オペラ〉、つまり演劇的パラダイム(をめぐるディスクール)に要易にアダプトし得る〈オペラ〉ではない。そうした言説のなかで引用されるのはワーグナーの楽劇やバロック・オペラ(といった特殊な臨床例ばかり)で、決してロッシーニヴェルディ(お嫌いですか?)ではなかった。だがやはり〈オペラ〉の本質にふれるものは、例えば『椿姫』(私は好きだ)のような「通俗名作」のなかにこそ存在するのではないだろうか。それは“一も二もなく″〈歌〉である(このあまりにも陳腐なメロドラマを前にして人は誤たない。「ここには歌以外はない」と)。
 では〈歌〉とは何か? メロディにことばがついているのか、ことばにメロディがついているのか? つまりそれは文学なのか音楽なのか? あるいは演劇(ドラマ)=物語のレヴュルにおくとすれば、メロディはことば(台詞としての)の説得力を強化するのか、それともことばがメロディの動きを説明するのか? しかし私にはこんな風にも思われるのだ。ことばの無内容さはメロディの美しさを虚ろにし、メロディの不自然なイントネーションはことばの真実味を疑がわせる、と。このふたつに分裂したシニフィアンはどちらもその本来的な機能ー伝達と解釈(象徴)ーをおたがいに去勢しあっている。この、シャム双生児のようにおたがいに寄生している(なぜなら同時にしか発せられないので)ことばとメロディの、実際のあらわれであるものが、“ひとつ”の〈歌〉である。ところが〈歌〉は(今述べた“相殺”によって)意味作用をおこなわない、何も語りかけない。テクスト(物語・ことば・音符)は“そっくりそのままのかたちで”「気化」していく。そして物質的に起ち上った<声>だけが視られるだろう(「オペラに行く」とは誰もが知っているように「〈歌〉を見に行く」ことだ)。
 ここで〈オペラ〉が“場”(トポス)の芸術であることをおもいだすならば、〈オペラ/声〉とはすペてのテクストを文字通りプレテクスト=口実とする“意味生成の場”(生産物=作品ではなく)であると言えるだろう。なるほど『椿姫』といえどもそれを作品″としてみるならば、ロゴス=内容(いかに少量であろうとも)は残る。だからロマン派の(文学)として、19世紀ブルジョワ社会の「神話学」として、解読することも出来るだろう。だがそれはあくまで、今、ここで歌われている『椿姫』を前にしてではあり得ない。それに本当をいえば、たとえ事後であっても、我々が思い出すことが出来るものといえば、しかじかのアリアのコーダにおけるコロラテュラといったきわめて物質的な記憶ばかりなのだ。それはもう終ってしまった恋の総体が愛撫の記憶の物質性としてとどまるのと似ている。
 さてテクスト(ことばとメロディ)のなかから意味生成性をひきだすことを可能にした〈声〉が、とりわけコロラテュラ(声による真珠ころがし)がそうなのだが、「ベルカント」というはなはだ人工的、技巧的な(語るためにあるとされる人間の声の自然ー地声ーからへだてられてあるような)唱法によって得られた、ということは恐らく正しい。そのような物質的な声だけがロゴス=ドラマトゥルギーの力を無化し得うるのではないか。なぜならワーグナーのロゴスにみちあふれた作品=生産物ー「楽劇」というのは実は「反オペラ」であるーにおいてはコロラテュラのような装飾は当然排除され、〈声〉は巨大なオーケストラ=物語装置に取り込まれ物語の進行の“標識”でしかない。恐らく演劇にとっては、その「ロゴス性」という宿命(たとえアンチテアトルといおうがその否定の身振りによってかえって力づくような)の強度について考えをめぐらす時に限って〈オペラ〉を(そのいとも軽やかな手つきで行うテロル!)モデル、それもあくまでイデアルなモデルとしてみることを許されるのだろう。
 ところでそうした意味において同様の示唆(いわばヒントといった程度の)を読みとれるようなサンプルは他になくもない。例えば、我々の知る〈祝詞〉(〈祓詞〉)。これは書かれたものとして読めば日本創生の歴史が延々と続くだけだが、声にするやいなや、「祓(はらい)」として機能する。ここでは〈オペラ〉においてみたごとく、テクストはまったくのプレテクスト=口実なのだ。同様に、「能」におけるテクストがいかに“漢意”(からごごろ)であろうとも、それは「謡(うた)」のプレテクストではないのか。更に興味深いのは、〈歌披講〉(宮中の歌会始め)で、ここではひとつのテクスト(和歌)が三度違った旋律でうたわれ、しかもその旋律はあらゆるテクストに適用される。こうなるとテクストのプレテクスト性はまったく自明である上に、アプリオリな条件とさえなる。うたわれる「場」(神前という具体的な空間、祓、能楽、歌披講、という形式)だけが問題となるこれ等の〈声〉も又、意味生成の「場」を発生させる装置とみることが出来るはずだ。しかしこれもあくまでイデアルなモデルと言うしかなく、(例えば木下順二の「群読」といったあからさまな)直接的なアダプテーションが可能かどうかは知らない。つまり〈祝詞〉が本当にエクゾルシスとして効くのか?は知りえない、ということだ。

(初出:『レ・スペック』1992年11月号 白水社