岡田利規演出『タトゥー』(デーア・ローダー作)@新国立劇場

困ったことに、そこに描かれているテーマとか話の内容とか(近親相姦、DV)に、全くもって「興味がない」のであった。いや、これまでのチェルフィッチュでも、岡田クンは結婚とか離婚とか出産とか−「家族」問題?−にまつわる話を扱っていて、そうした話題についてはやっぱどうしても関心が持てないのだけど、舞台上のパフォーマンスが面白いのでノープロブレムだった。ってことは、今回の場合、上演のレベルでも面白がれなかった、ということになるのかなー。この演出の眼目は「陰惨な話をスーパーフラットに語る」ってことだと理解したが、そうすることで何か「落差」が出てくるとかでもなく、というのは塩田千春の美術が強烈に「暗い」「情念」を発しているからだと思うのだ。
あと思ったのは、「棒読み」というのはなかなか頭に意味内容が入ってこないなー、と。「棒読み」もまたある意味、「韻文」化というか「様式」化の一つ(ただし、非リズム、非メロディ的な)だと思うが、それとその他の要素つまり発話内容とか舞台環境(セット、衣装)との関係というのはある。昔みた市川崑の『鍵』(谷崎)は、普通の映画のリアルな環境の中で役者(とりわけ仲代達矢と叶順子)の台詞回しだけが「棒読み」というものだったが、それは作品全体の様式性を際立たせる効果を発していた。承知の通り『鍵』もまた、変態老人(雁治郎!)が己の性欲を刺激するために、妻(京マチ子)に間男を強要させて覗き見する話で、そうしたエグい話を品格を持った「古典劇」にするに、あるいは、クールなモダニズム作品にするに、「棒読み」一つで対処したのは見事なアプローチであったと言える。話を戻すと、今回の『タトゥー』は、美術、衣装、演技そして戯曲(の省略的ナラティヴ)、とすべての面で中途半端に(?)抽象的(様式的)傾向があり、それが必ずしも相乗効果を生んでいないのではないか、と。