批評の「作法」について

木村覚氏と乗越たかお氏がメールのやりとりをして、互いのサイトで公開している。私信を公開している以上、広く一般に、第三者の判断を要請していると考えられるので、僕の感じたことを書いておこう。もちろん、自戒の意味も含めてである。

木村覚氏の記事「乗越さんにあてたメール」
http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/67ca3bc07c1b63877210f43bcdc65c36
乗越たかお氏の記事「木村覚氏からのメールへの返事
http://d.hatena.ne.jp/nori54/20081212

やはりまず第一に思うことは(これは木村氏の言ってることとも重なるけれど)、憶測やアングラ情報(オフレコ発言やその又聞き)をもとに論を展開するのは、いかがなものか、ということだ。学術的「論文」とは言わずとも、スタイルは問わず「批評」においては常にそうだと思うが、そこでなにがしか批判的なことを言う場合、名前を明示するしないに関わらず、公(ネットも含む)になされた発言や原稿を対象とするべきではないか。そうでなければ、第三者(読者)が裏を取ること、即ち事実関係を確かめる手だてが一切ないことになり、議論の前提が成立しない(「もしそういう発言が仮にあったとしたらそれは許し難いことである」云々という、あくまでも仮定・架空の問題にしか成り得ない)のだから。
要するに、乗越氏の『ダンス獣道を歩け』のような書き方はかえってあれこれ勘ぐられる可能性がある、ということだ。それは書き手にとっても読者にとってもよくないことなのではないかと思うのだ。まさにあらぬ誤解によってせっかくの本題(ダンサーを応援する等)にいらぬバイアスがかかってしまう、ということ。
例えば、東野祥子に関する記述。トヨタアワードの打ち上げの席で東野に「イチャモンを付けたヤツ」がいたという。あの時の、並みいる有力候補を下しての「大穴」的受賞!という状況からしていかにも「ありそうな話」ではある。打ち上げ会場には僕も含め多くの「ダンス関係者」がいた。それで、現場に居合わせた者がこの記事を読んだ時、どういうことが起こるか? きわめて曖昧な記憶をたどり「あそこにはコイツとアイツとアレがいたっけな、あ、あの人もいたな、そういうことを言いそうなのはアレとアレかな、アイツかな?........」というなんともイヤーな「犯人探し」があちこち(脳内とは言え)で始まるかもしれない。あるいは、「オレのとこに出てから良くなった」と言ったとされる人物は誰か?を推測しようとすれば、一般読者でも、これまでの上演記録を調べるなどすることによって容疑者を数名にまで絞り込み可能である。その後は、いかにも「アイツ」なら言いそうだな、いや、「あの人」ということも考えられるな、という「なんとなく」レベルの話になってくる。犯人は特定不可能であるから、なおさらのこと、関係者数名は永久に「灰色」に止め置かれることになるだろう。
トヨタアワードの山賀ざくろ×泉太郎「天使の誘惑」の件では、僕なども容疑者の一人にされる可能性がある、というかマジ第一容疑者かも(笑)。加えて、トヨタの一次審査の選考委員全員、あるいはこの論でいくと必然的に、以前からざくろを評価してきた批評家やプロデューサーはすべて容疑者(=批判対象)になってしまう。
いや、この件については前提がそもそも「勝手な想像」に過ぎないのであった。おそらく上記の本件容疑者諸氏のうち、「これがダンスへの批評だ」とか「とにかく技術があるのはダメなんだ」などというとんでもない妄言を言うような人はさすがにいないのではないか?というのはもちろん僕の「勝手な想像」だけど。もちろん僕もこれまでそんなことはどこにも書いたことはない。つまり、ここの部分は誰かがそれを言ったというより、乗越氏としてはまったく評価できない山賀ざくろを「おだてて担ぎ出す」ような「ダンスを頭でばかり考えすぎ、奇形的に肥大した妄想でパンパンのヤツら」の理屈はそんなもんだろう、という「勝手な想像」なのだろう。(ちなみに、私見では山賀ざくろは歴然と「技術」もあるし、(踊らないことによる)「ダンスへの批評」というより普通にダンスなだけになおのこと不可解なのだ。)
乗越氏としては、それでも「あえて」書く、「伝えるべきことがあるのなら、自分の責任において書く」と言うのだけれど、例えば、もし仮に山賀ざくろ本人が「いや、それは全くの事実無根である、無責任に勝手な想像で書くな」と抗議してきた場合、どうやって「責任」が取れるのだろうか? あるいは、もし「打ち上げの席で東野に苦言を呈したのはオレだ、ただし、その内容はこれこれこう言ったのであり、イチャモンとはまったく違う」という人が出てきたら、どうするのだろうか? 「責任」は取りようがないのではないだろうか?
それから、こうした「裏情報」や「内幕暴露」的な話題というものを、『DDD』のような雑誌で書くことの必然性がよくわからない。いや、『DDD』という媒体の位置づけが違うのかもしれないが、少なくとも僕は「一般誌に限りなく近いダンス雑誌」もしくは「専門誌というよりファン雑誌」というふうにとらえているので、そうした性格の媒体になぜ? という感じ。そんなダンスの醜い現状(というものがあると仮定して)を読まされたら、ごく普通の読者はゲンナリするしかないと思うのだけれど、どうなんでしょうね。