Danse Macabre

65歳以上の男女によるピナ・バウシュ『コンタクトホーフ』のヴィデオを見る(さいたま芸術劇場)。
先日の『カフェ・ミュラー』『春の祭典』ではシラけてしまったが(20年前にあれほど感動したというのに)、今日のはすこぶる面白かった。いやー、外人はスゴいね。歳くっても全然枯れないわけですよ。体はポンコツになっても、精力はギンギン。生&性に対する執着が違う。肉食な感じ。体だって、もちろんガタは来てるんだけど、立ったときの姿勢とか、歩行とかに関しては、まったく立派である。スーツとかイヴニングとかハイヒールとかの着こなしがホント板に着いてる。
これは何だろうな、我々のコドモ身体とも、もちろんオトナ身体とも違う、あるいはゾンビともエイリアンとも違う。メキシコの骸骨みたいなものか。でも、肉が残ってるんだな。いずれにせよグロテスクなこう笑。見方によっちゃカワイイおじさまだったりもするかもだけど、やっぱ相当のすれっからしですよ、不良老人。
マギー・マランの「メイB」の老人たちのダンスもちょっと思い出した。あれはまあ芝居臭いけど、こっちはリアルもリアル。

そう言えば、この作品については、見る前にこんなことを書いてました。
<「カンプナーゲル・ラオコン・フェス」で、ピナ・バウシュが65才以上の老人で『コンタクトホーフ』(78年初演)を上演したんでしょ。そのことが象徴的なわけですよ。その舞台はまさに身体ー歴史によってかろうじて成立する「帝国」への抵抗だと思うな、見てないでアレですが。今のバウシュのカンパニーの若いダンサーたちの身体を見ると、なるほどこれじゃかつてのように「踊らない」という方法によって実存的(歴史)身体であることは出来なくなってるんだろうな、と思わざるを得ない。かつてのように精神分析的に「ダンス」といういわば「言語」=「意識」をダンサーの身体から剥がしてみても、その下には古層=深層がない(泣笑)。内野儀の言う通り、彼等の身体の存在感は「薄い」。歴史性を欠いた身体ですね。多彩な国籍にもかかわらず、均質な「薄い」身体である。それがグローバリゼイションということですから。>(「コドモ身体」ということ コンテンポラリーダンスにみる「歴史と記憶」(?)/『舞台芸術』誌第4号 2003年9月より)