「この人を見よ」

フォーサイス・カンパニーBプロを観る。
Clouds after Cranach (Part I)(2005)
クラナッハの絵のポーズを起点にして雲を生成消滅させる」ということかしら。かつて『仮定された流れ』において、ティエポロの天井画の群像のポーズが起点となったように。たしかにあれと同じような集団即興だが、しかし今や速度においても絡まりの複雑さにおいても、とんでもないレベルに達している。しかも、まったく無駄な動きがない(ように見える)。
スゴ過ぎる。なにしろ前日にリヨン・オペラ・バレエを観たばかりだったので、余計に、ね(笑)。恐らくは、現在の世界のコンポラのレベルから言えば、リヨンのダンサー達も上演された3作品の振付も、そこそこ、水準以上ということなのだと思う。つまり、フォーサイスと彼のダンサーたちが、いかに「高み」を見ているか、その為に弛まぬイノベーションと修練を自らに課しているか、その他99パーセントとは雲泥の差だよ。
それから、「カッコいい」ということは何て「カッコいい」んだろうか、「カッコ悪い」ということは、結局のところ「カッコ悪い」のである。ダサいものはダサい。カッコいいものを作れないヤツはせめてルサンチマンを抱くべきでしょう。それすらないからこれだけカッコ悪いものが大手を振ってイキがっているわけだけどね。今のダンス界は未だかつてなかったほどに、どんくさい奴、カッペが多すぎるということ。
がしかし、である。うーん。今ひとつグルーヴが、うねりが押し寄せてこなかったのですよ、僕の体には。「無駄」がないとは言い換えれば「ノイズ」がない、ということでもある。これは、無いものねだりでしょうか? こっちの動体視力が追いつかないからか、あまりにスルスルとスゴイ光景が過ぎ去っていくので、ポカンと口を空けて眺めていることになる。
ところが、ときどき、唐突に「フリーズ」が起こる、その一瞬のブレイクにものすごく「ハッ」とさせられる。それは、例えば、高速で走り回る者の目の前にスっと手が伸びてきて肩を押さえられ、「押しとどめられる」という形を取る。「無穹動」が突然、凍りつく、それはものすごく「事件」の感がある。しかも、その時の全体の「構図」がものすごく「劇的」なのだ。何か決定的なことが起こってしまった瞬間(「この中に裏切り者がいる」とか)のような。しかもその惨劇は(一瞬後には何事もなかったように溶解するが)何度も何度も反復される。恐い。
One Flat Thing, reproduced(2000)
これは2000年の作品だが"reproduced" ということで、ほとんど現時点のフォーサイスと見てよいだろう。幕開けと同時に、ダンサーたちが舞台奥の暗闇から猛ダッシュでテーブル12個を運んでくる。グリッド状に並べられた(横3×縦4)テーブルが一瞬にして舞台スペースをほぼ埋め尽くしてしまう。この「掴み」は最高!やられたね。で、Clouds after Cranach と同様の集団即興が机の上、そして机と机の間のわずかな隙間という、よりハード、よりリスキーなハードなシチュエーションで繰り広げられる。これまた、あっけにとられたままの状態に(超複雑とはいえ、ドラスティックな変化というものがないので)ちょっと飽きてきたかなー、と思った瞬間、横方向の真ん中の列のテーブルをダンサーが下手からガン!と押して、クラッシュ!机の上とか間ではダンサーたちが踊っているというのにだ。うわー、結構ヤバいことするなー、でもエキサイティング!と客席から身を乗り出したところで、カットアウト。ひぇー、超クール。カッコよすぎだよ!
7 to 10 Passages(2000)
2本目に上演されたコレは、まあ「2000年」の作品ってことだよな、と理解。世紀末。美学的。踊りのスタイルは「なんちゃってBUTOH」な。超低速で横一列の幽霊の徒競走あるいはデモ行進。ただし、途中で奥の方から一人で登場してひとしきり踊ったダンサーが、面白かった。「浮き足立った」、というか「ひょうきんな」、というか「ひょこひょこした」ダンス。ちょっと山県太一の挙動に似てるような。