岡田利規『家電のように解り合えない』@あうるすぽっと

この作品は二つの意味においてきわめて挑発的にわれわれ自身の問題を扱っている。一つは岐路に立つと言ってよい日本社会論、日本人論。もう一つはこの10年こんがらがり続けてきた「日本・現代・身体表現」問題。ぶっちゃけ「コドモ身体」問題である。
一つめの、日本的「相対主義」の「乗り超え」、例えば「脱原発」派と「原発依存容認」派、みたいな対立は、双方の気持ちを、可能な限り「解り合おうと務める」ことが必要だし、そうすることが出来るだろう。
だがしかし、もう一つの問題はそう簡単ではない。「解り合える」かどうか、の前にそもそもそうするべきなのか、それが必要なのか、ということもある。
岡田利規もある部分そうだと思うが)僕自身、この問題に関してはかなり「解ってもらうように務め」たつもりだけど、一向に解ってもらえず、さんざんな結果に終わったよな〜というあきらめのモードに入っちゃって今に到るわけです(それでも地球は回っている、ていうか「コドモ身体」というのはアリかナシかで言ったらアリだよね!っていうかそこにあるじゃん!ほら、それだよ!って思ってますが)。
で、そのことをあらためて「実際の舞台上」で確かめてみました、というわけだけど、結果はどうかといえば「うーん、やっぱ、歴然、ですかね〜」といわざるを得ないことに。「解り合おうと努力する」ことをしないで済ますよりは、実際やってみて「ああ、やっぱ解り合えないな」と納得するのとでは、なにがしか確信の度合いが違うわけだけどさー。
この舞台における森山開次チェルフィッチュの2人の女優とは、常にお互いがお互いの批評として機能してしまうように存在する(しかない)という存在。なんて残酷なことをするのでしょうこの演出家は。つまり、ダラダラしたいわば「チェル的な」モードの中で、一心不乱に踊り続ける「ザ・ダンサー」森山開次は、「この人なにしゃかりきになってるの?暑苦しいんですけど」的に見えるようになってしまう。その冷たい視線に耐えて踊るオヤジにはちょっと感動してしまいましたが、それは本質的な部分ではありえません。一方、森山の振付けた「ダンス」を「出来ないながらも精一杯踊る」青柳&安藤はどうか? これも「ヘタレ頑張れ!」的な感情移入をした見方をすることは出来るけれど、やはり客観的に見ればその「表現」は稚拙であり端的に「イタい」というしかない。
いずれにせよ、こうしたあからさまな「解り合えなさ」の「提示」は、前代未聞であり、それがこの作品の「画期性」だということはある。
通常の場合、根本的なレベルで「理解不可能」だとわかってしまったら、もはや、可能なこととはせめて「お互いを尊重する」ということぐらいしか残されてはいない。つまりは「きっちり棲み分け」ってことになるわけだけど、、、、、。
で、あらためて一個目の「日本社会」のほうの、解り合えなさの問題に戻れば、まったく正反対の価値観を持った他者と(例えば、自分としてはほとんど気違いとしか思えない石◯慎◯郎とかと)果たして本当に解り合えるのだろうか? 解り合う必要がある、だから、解り合えると思いたいと願う自分がいる、と強く自覚している、としか言えないな〜、ホントのところは。