批評の「作法」について(2) 中西理さんへ

先日ここに書いた乗越たかお氏に対する記事について、中西理さんが彼のブログで書かれている。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20081220/p1
以下、中西さんへのレスということで。

>ただ、やはり残念なのは本当に重要なのはこの前に書きかけたように乗越氏と木村・桜井両氏のダンス観の違いであって、本来はそこにこそ議論の焦点は置かれるべきだったと思うからだ。(中西さんの記事からの引用)
それは野次馬(第三者)的にはそのほうが面白いかもしれませんが、今回は場所とタイミングが違いますね。
私は単に、批評をする者の作法(ルールかつ礼節)は大切だ、ということを述べただけです。
>乗越氏が雑誌に書いていた文章の論旨には私も最近感じている東京の一種の「踊らないダンス」が優勢な状況への批判あるいは問題提起があったはずで(中西さん)
ですから、そうした重要な問題提起であればなおのこと、まずはしかるべき「書き方」があるんじゃないのか?ということです。
>本当に重要なのはどうやら桜井氏の「コドモ身体」に代表されるようなダンスが中心に置かれつつあるようにも見える現在の東京のダンス情況に対して、乗越氏が批判の矢を向けていることだ。(中西さん)
もし仮に乗越氏の意図がそうであるならば、「ほのめかし」ではなく、今、中西さんが書いているように、明確に、リテラルに書くべきだと思うわけです。
なるほど、乗越氏の文章は、そのことについて書いているようにも読めなくはない。しかし、もし仮にそうだとして、「技術があるのはダメなんだ」というムチャクチャな暴論は僕の知る限り聞いた事がない。もちろん、僕はそんなこと(ちなみに僕の「コドモ身体」とはまったく関係のない論理です)は言ったことはありませんので、言ってもいないことにはからまれたという意識も持てないし、応答のしようがありません。誰が言ったのか(本当にそんなバカはいるのか)がわからないような「書き方」はマズい、というのはそういうことです。
>これはもう犯人探しなんかしなくてもいいですね。乗越氏が誰のことを年頭に置いてこれを書いたのかは知りませんが、私自身は自分の耳で東京のダンス関係者があの人もこの人も、というか挙げるにことかかないほど大勢が彼女について批判的なことを言っていたのを聞いていますから。特定の個人の名前を挙げるのが意味ないほど大勢がです。(中西さん)
これは、トヨタの打ち上げの時の話に関してですね。私は、東野“本人に直接”イチャモンを付けたヤツがいる、という(そう読めます)乗越氏の記述について「批判」したのであって、誰が東野さんに批判的なのか、についてはもちろん、誰がトヨタアワードの東野受賞に批判的なのか、ということを問題にしているわけではありません。
というわけで、中西さんは
>せっかくダンスについての見識を持っている人たちなのだから、乗越氏を批判するのじゃなくて、乗越氏がダンスについて書いていることについて批判があるのならばそれを批判して、論陣を張ってほしいものなのだが。(中西さん)
と言われますが、上に書いてきたことからご理解いただけると思うのですが、一体、何(誰)のことを批判しているのかがきわめて曖昧な乗越氏の「書き方」では、そういうまっとうな議論が成立しない、ということです。