コトバは一人歩きするもの、とはいうけれど

■最近、個別のダンスを評する文章中に、「コドモ身体」という言葉が説明抜きで使用されている、というのをいくつか立て続けに目にした。それがどうも、私の(作った)用法と微妙に、あるいはかなりズレていると思われるのですね(堤広志さんがCUT INに書いている文章では、日本のコンポラダンスの「コドモ身体の善用」(桜井圭介)に対してドイツのそれは「オトナ身体の悪用」と言えるのではないか、というような箇所があったけど、これは私の、「コドモ身体(の中の1つである「ダメ身体」)は「技術の善用」を行う、という論を誤読していると思われますが、どうでしょう?)。
■なので、いちおう言っておくと、もちろん「コドモ身体」は、単に「ファンシー」やら「イノセント」な身体やダンスでもないし、単に「ノーテク」なダンスの謂いではありません(詳しくは私のHPに掲載されている原稿をお読みください)。
■例えば、今日「カワイイ」が意味する内実がものすごーく多義的である、というのとは話が違うけど、でもちょっと似ている。キティとアミ&ユミのことだけではないわけで。
■昔、赤瀬川原平の「老人力」が、ベストセラーになって、流行語になって、しまいにはまったく正反対の(逆説なのにリテラルに取られた)意味に使われていたのを思い出す。しかし、それは余程の程度の流布の結果であり、そこまでいくともう笑って済ますしかない。
■でも、まだそこまでに至らない場合、いまだマイナーな言葉の場合はどうか。例えば今「マルチチュード」という言葉が使われている時は、いちおうネグリ&ハートの「<帝国>」か「マルチチュード」を読んでいることが想定出来るわけで、すると、例えば「反グローバリズム運動の市民運動の集団のこと」とか、そういった意味あい(だけ)で使っていたとしたら、それは「誤読」、もしくは「読みかじり」ということが明らかだ。「コドモ身体」なんかそれ以上にマイナーなわけで、そんなマイナーな言葉を使うからには、当然、奇特にもその人がマイナーな原典にあたってくれている、と判断するのが妥当だと思うし、とりたてて難解なコンセプトでも難解な文章でもないんだけどなー。では、なぜに語意がズレるのだろうか?
■うーん、ま、確かにちょっと被害妄想ぎみだけど。俺。