複雑な気持ちになる(2)

オペラ・シティ・ギャラリーで『夢見るタカラヅカ』展。僕はタカラヅカ的なるものはまったく好きではない。それは、説明すると果てしなく長くなるのですが、この日再確認したのは、その「性的なものを隠蔽しつつあからさに露出させる」という心性がイヤなのだということだった。これは「セクシー」が前提であるSKD(松竹歌劇団)やNDT(日劇ダンシング・チーム)にはない。どちらが下品であるか、という問題です。タカラヅカも、最初はほんとに「少女」の「歌劇」だったわけで、その時点ではパフォーマーに隠蔽するべきものはなく、あくまで当然の余録として「清く正しく美しく」が得られたのだが、それがだんだんと年齢的にも精神的にも「少女」というにはいささか無理のある「女性」へと構成員が変わっていったにもかかわらず「清く正しく」をモットーに掲げ続けたから「カマトト」ぶる必要が生じてきて、今日にいたる奇形的な表現が形成されていったのだろう。
ちなみに、この展覧会の出品作家のなかで、西山みな子だけがタカラヅカ的ではないのだが、それは彼女の表現が、口唇期的とまではいわないにせよ、性的にみて「少女」的であるからだ。
その後、こまばアゴラ劇場へ移動して、地点『じゃぐちをひねればみずはでる』マチネーを観る。三浦基の芝居は初見である。自分の掲示板に”いちおう”レコメンドの書き込みをしたが、大絶賛というわけではない。まず、書き込みを再録すると『とても刺激を受け面白かったです。先日のチェルフィッチュ「クーラー」にも通じる「音楽としてのパフォーマンス」ってことは煎じ詰めれば「ダンス」ってことだけど、を感じました。驚異的な技法を駆使した特異かつ華麗なセリフの発話が呼び水となって、身体行為のすべてが音を出す=プレイする身体となる。チェルフィッチュがより身体的な「ファンキー(NY派ジャズ)」とすれば、地点は理知的な「ウエストコースト派ジャズ」という感じかな。とにかく一見の価値アリです。』ということで、「一見の価値」はあるのだが、一番大きな問題は、やはりその「技巧性」、「人工性」「コントロール」の完璧さ、ということになる。ありていに言えばこっちの「身体にこない」、ということ。その「音楽」というのも、頭に来る刺激はあるのだが、身体的に同期するところまではいかない。知的な快楽に止まる、というか。もちろん、こういう徹底したフォルマリスト的なアプローチは日本の演劇ではほとんどないわけだから、そういう意味では大きく評価しなければならない。それで、思ったのは、「演劇として」みれば、ここにないものは「物語」である。この飯田という詩人のテキストがまたほんとに「ポエム」で、何もひっかからない。たとえば、前回の公演が評判だったチェホフ『三人姉妹』のような場合であれば、「リアル」はとりあえずテキストによって担保されるのではないか。そうであるなら、構造としてはいかに徹底的に形式的なアプローチをしても、いやそうであればあるほどに、チェホフのリアルが浮かび上がる、という可能性がある。これは観てみたい。