白南準

ナムジュン・パイクが亡くなった。真っ先に思い出すのは(宮沢さんも日記 *1 に書いていたが)、やはり原宿ピテカントロプス・エレクトスで行われたパフォーマンスのことだ。ボクはピテカンに務めていた(プレス担当)ので、幸運にも目撃することができた。ちょうどご近所のギャルリー・ワタリ(現ワタリウム)でパイク展が開催されて、その関連イベントだったのだが、参加メンバーは、パイク+坂本龍一高橋裕治+立花ハジメ+三上晴子の5人であったと記憶する。なにせ約20年前のことで。パイクはラクダの腹巻をしてピアノの向かっていく。それはつまり、「ピアノと相撲を取る」ということらしい。ご丁寧にも四股を踏んだりしていた。かなりふざけている!教授はシンセ(多分)、高橋裕治はピアニカ、立花ハジメは彼の発明したメルツバウ風の楽器「アルプス」3号(何号かいまいち憶えていない)、あと三上さんは鉄の棒(鉄筋?)による「生け花」を、”それぞれ勝手に遂行”していたのではなかったかな。たぶん、フルクサス的なインストラクション・イベントではなく、カニングハム×ケージ×ラウシェンバーグの「ばらばらな行為が偶然にどこかの瞬間にシンクロする」やりかたに近いものではなかったかと推測する。
なんにせよ、こんな組み合わせが可能だったのが80年代の東京だった。宮沢さんのことばを借りれば「ハイカルチャーサブカルチャーが一つの空間で邂逅」していた。
宮沢さんは続けて「八〇年代の「負」のひとつに「ハイカルチャー」の安易な消費があった。するといかにも上品な態度でわかった顔をする連中を見て、嫌悪する者はそれを否定したと想像する」とも書いている。その結果、90年代以降「嗤うアイロニー」が起こり今日にいたる、というのが北田暁大の論なわけだが、その状況(認識としては肯定するけれど)に対して抱く感慨、80年代にいやおうなくハイカルチャーの安易な消費(流通)の側にいた一人である自分の立ち位置から来る「困惑」についてはまた今度。一言だけ言うと、「ハイカルチャーと言うけれど、実感としては、「超デタラメなもの」として受け取り、楽しんでたんだよ、ホント!」というのはある。とにかく「ピアノと相撲」とかなんだから。