危口統之「はだかのオオカミ」

 イソップの「オオカミ少年」とアンデルセンはだかの王様」。「ウソ」を扱った童話二つを合体し、いわば“でっち上げ”たのが、危口統之作・演出『はだかのオオカミ』だ。
 「これは馬鹿には見えない服」だという仕立屋に騙された王様と家臣たちが、見えてるフリをせざるを得なくなり、お披露目パレードで子供たちに笑われる。この「王様はハダカだ!」事件を契機に、怒った民衆の(SEALsめいたコールが連呼される)「デモ」が起こり、大臣たちの「謝罪会見」(国民的アイドルグループの先日のあれを用いた)が開かれるなど、劇は我々の今をなぞり始める。
 ついに革命により共和制が樹立、見えない服の仕立屋=ウソつきが大統領に。退位した王様は(昭和天皇人間宣言みたいな感じの書き置きを残し)失踪、森の中で「オオカミ少年」に出会う。少年は誰も自分のウソを信じなくなったので、自らオオカミとなって町へ逆襲しようと毛皮で着ぐるみを作っていた。王様は戯れに着ぐるみを纏い「オオカミが来たぞ!ガウー!」そこへ王を探しに来た家臣が登場、「オオカミ」を目の当たりしてズドンと一発。ラスト、「見えない王様」のお召し変えを(マイムで)行う者たちの、幻想の(?)王宮の日常風景で幕。
 かくして原作の「だから、ウソはいけません」という道徳的「教訓」は吹き飛び、「もしかして世の中ウソで回っている?」というアイロニカル(ドイヒー)な「真理」が浮かびあがる。
 しかしこれ、高校の学内公演、つまり「教育の一環」として実施されたというのがスゴい。学校教育に演劇を、というと得てして「コミュ力」アップ!とか、一致団結!みたいな話になりがちだが、選挙権年齢の引き下げで「有権者」教育が求められる今、これほど有益な授業はない。つまり「社会のなりたち」を考える、今僕たちが生きるここはどういう社会か?を考える、そういう劇であったと言える。
 さらに、「演劇」を学ぶ途上の生徒たちが、今この劇に参加出来たことは幸運だったと思う。ともすると、「リアル」を表現するツールだ的な錯覚に陥りがちだけど、 そもそも演劇って「ウソをつくこと」だった筈だよね? その点、きぐち先生の演出・演技指導のポイントはおそらく、いかにも「本当」らしく、ではなく歴然と「お芝居してます」で、というスタンスで(舞台セットもむき出しの段ボールのハリボテ)、「高校演劇」のトレンドがどうなってるのか知らないが、今どきここまで「学芸会」な演劇はないよ! だが、結果フツーのリアリズム演技には出せない、夢中で「ごっこ」に興じる者の生き生きした身体が起ちあがっていた。「ウソっこ」「マネっこ」で遊ぶ、ウソと知りつつ「あえて」遊ぶ、演劇の「初心」を思い出させることになったことだろう。僕もそう。

(初出:『ケトル』2006年5月号)


「はだかのオオカミ」
福島県立いわき総合高等学校 総合科第13期生 アトリエ公演)
2016年1月30日〜31日@いわき総合高等学校

作・演出:危口統之

出演:
飯島 楓花 茨木 彩華 小野 遥香 上遠野 真凛 阪本りょう 設楽 萌々 
鈴木 鳴海 東海林 莉香 平子 桃花 但野 鮎香 長南 茉生 粒來 みのり 
富澤 ひより 中村 美里 七海 舞香 根本 優奈 根本 有希菜 飛知和 有沙 
吉田 菜々子 若松 怜愛(五十音順)

演出助手:辻村優子
協力:佐藤恵 岡村滝尾
いわき総合高校:斎藤夏菜子 佐原輝明 谷代克明

ロロ『校舎、ナイトクルージング』

(「ケトル」2016年2月号に掲載)

 学校に幽霊が出るらしい、というので高校生男女3人が真夜中の教室に忍び込んで心霊ツアーを敢行。 そこで遭遇したのは「お化け」!と思いきや謎の不登校女子で、彼女は毎夜教室のあちこちに盗聴用レコーダーを仕掛け、前日のぶんを回収していたのだった.....。
 胸キュンな設定と物語、魅力的なキャラクターとそれを生き生きと演じる俳優、何かもがキラキラしている。しかも、そんなライトでキュートな見かけの下にはコアな演劇的企みが。完璧にハートを持っていかれた。
 『校舎、ナイトクルージング』は、高校を舞台とした連ドラならぬ連続演劇「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」、その第2話。演劇で「続きモノ」というのは、ありそうでなかったアプローチだと思う。もちろん単体でも十分楽しめるように作られているが、これ、前回の上演で描かれたある一日の、その日の夜の話なのだ。ただし新キャラと入れ替わりで前回の登場人物の半分は出てこない。いや、変わった形で登場する、というべきか。
 件の不登校女子が昼間の教室の声・物音を録音(フィールドレコーディング!)するのは、真夜中の教室でそれを再生して、クラスメートたちの学校生活を想像するためだ。あたかも透明になった自分がその時この場所にいるかのように。つまり、その想像のなかの彼女は昼間の教室の「幽霊」!
 そして観客にとっては、舞台上でその音・声が再生される時、今日の昼間の教室での出来事=前回の上演が「再生」される、ということだ。とりわけ前回を観た者には、今この瞬間二つの上演=時間が二重写しになって起ち上がっている、と感覚されるのだ。(前回登場した)見えない登場人物たちの笑い声やざわめき。それもまた「幽霊」たちだ。
 さて、「結局、お化けの話じゃないのね」と思ってたら、出ました、お化け。しかも「見えちゃう系」のお化け(って何じゃそれw)。その子は昔この「2年6組」の同じ教室に通っていた高校生の幽霊だという。ここでもまた、現在と過去が二重に並存している。しかも、お化けちゃんと仲のよかった楠木くんは今の2年6組の同じ机にもいる!? そういえばあいつが話してるとこみたことないよね、幽霊みたいな存在....って言われてる楠木。
 考えてみれば、いつもいるのに存在感の薄い子も、学校へ来ない不登校の子も、他の生徒から見れば幽霊みたいなもので、逆に「見えちゃう幽霊」は普通の女子高生と「見た目」は変わらない。その両者の交換可能性。
 こうして散りばめられたモチーフが仕掛けるのは、一つの場所の二つの時間そして実在/非実在のレイヤーの重ね合わせ、いわばパラレル・ワールドのアクロバティックな重ね合わせだ。
 けれど、今ではない時間を想像する(させる)、ここにはいないものを見(せ)る、というのはじつは「演劇」の最も根源的な仕事ではなかったか。その意味では極めて真っ当なザ・演劇。だがしかし、それよりも何よりも「早く続きが見たい!」状態の私なのだった。

「コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」

7/16 国際共同研究「日本の舞台芸術における身体― 死と生、人形と人工体」(ボナベントゥーラ・ルペルティ主宰)
第6回研究会
コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」レジュメ


1.「コドモ身体」Child Body

「2000年代の日本のダンスの新しい傾向」を表す言葉として命名(2004年 桜井)。
とりわけ「ニブロール」(矢内原美邦)。
・おのれの身体に対して過不足なく力を働かせることが出来ない(しない)、重心移動をはじめとして、身体コントロール全般が「ユルい」子供のような「身体-運動」。
・「きれいな、正確な、スムーズな」身体操作ではなく、むしろ「ギクシャクしていて、ブレたり軋んだり、つっぱらかったり」するダンス、
・「すっと真っ直ぐ姿勢良く」ではなく、「フラフラ、ダラダラ、揺れている」身体のダンス。
ダンスの規範(理想)からズレた身体-運動。
素人・生育不良・子供な身体-運動のダンス
ダンス的な根拠として→
・そっちのほうが「活き活きしている」という感覚的・感性的な判断。
・日本的身体の系譜:「老い」=「成熟」。侘び寂び(歪な茶碗)。「舞踏」の身体(大野一雄の「老体」。土方巽の「病身」「不具」「撓められた身体」)
・そもそも、本来的にダンスという行為・欲望はすべからく「身体を本来の目的(生存・生活の円滑な遂行)やその為の正しい使用法に則って用いるのではなく、間違った使い方で「オモチャ」にする」ことではなかったか?
しかし、残念ながら当時ダンス業界ではかなりの反発(嫌悪)をくらった。
ほどなくして、演劇にも「流用」(チェルフィッチュ岡田利規など)。
演劇方面では一定程度、用語として流通。
そもそも、90年代の小劇場系演劇の俳優の身体(立ち方、発声)が、源流。(宮沢章夫松尾スズキ岩松了など。平田オリザ除く。)
ニブロールは小劇場の「オーソドックスな訓練を経ていない俳優」を「ダンサー」として起用した。
「60年代アメリカン・ポスト・モダンダンス=ジャドソン教会派とニブロールのコドモ身体的ダンスの関係」と同じことが「平田オリザ宮沢章夫松尾スズキそしてチェルフィッチュの演劇の身体との関係」にも言えるのではないか?
→普通・普遍的身体(ニュートラルな、標準的日常性)か、一人一人の身体の固有性・特殊性か。
その後、2000年代後半から急速に「コドモ身体」的(と桜井が言うところの)ダンスが消えていき、代わって「テクニック重視」の「オーソドックスな(保守的な、と桜井が見做すような)ダンス」が盛り返して今日に至る。
いっぽう演劇では、チェルフィッチュのスタイルが一つのデフォルト・基準となり、その更新・変形が広く目論まれている。(チェルフィッチュは欧州への進出を機に、主たる関心を身体から劇構造へシフトしたように見える。)

2. 2011年、3.11以降の演劇(?)における「発話」について

かつての「コドモ身体」論では、概ね俳優の立ち方、振る舞い方を(ダンスと同様に)考えていたが、演劇の身体とは、一義的には台詞の「発話」ではないか?
そこで、2011年、3.11以降に観た(聴いた)いくつかの演劇(広義の)の発話について考えてみる。
・高校生の演劇:飴屋法水『ブルーシート』https://www.youtube.com/watch?v=tDHnw8DTSn8
いわき総合高校の演劇専攻の生徒たち。演劇的スキルは乏しい=ヘタくそ。にもかかわらず、きわめて自然体の演技が成立していた。自分のことを語るリアリティ・強度。
・一般市民のぶっつけ本番の朗読:「F/T13オープニングイベント いとうせいこう宮沢章夫『光のない』(イエリネク作)」https://www.youtube.com/watch?v=5AQ7YrLeCIY
途中からマイクを観客に解放し、配布された『光のない』のテクストを次々と一般人(シロウト)が読み上げていく、という構成。彼ら彼女たちが訥々とつっかえながら読むのを聞くと、不思議なことに、あの恐ろしく難解なテクストが、「入ってくる」(頭に、というより心に?)のだった。それは、反原発(や集団的自衛権反対)のデモや集会の市民によるスピーチを思い出せた。「怒り」の言葉の強度・リアリティ。
・訓練された俳優による意図的な「吃音」:地点『ファッツァー』(ブレヒトhttps://www.youtube.com/watch?v=I__WNJl68xQ
ズタズタに分節化(分断)されたセンテンス・単語、そこから(再度)立ち上がってくる「意味」。通常の俳優の技巧的な発話は、抑揚により強調や感情の「機微」をもたらすと考えられるが、ここでは、言語の物質性(異物性)がほんの少し遅れて届く意味内容と合わさって、奇妙な「強度」をもたらすように思われる。

以上、3つの事例に共通して言えるのは、発話の非「流暢さ」のもたらす「リアリティ」という逆説的な事実である。
→2000年代の「コドモ身体」と同様に、「劣弱性」が表現として「強度」を獲得している。しかしながら、その意味するところは何だろうか?

Chim↑Pom 汗と涙と愛情あふれる(?)アクション経由のリアルな剰余

(初出:『スタジオボイス』2007年8月号 )

 小さなギャラリーに入るとすぐ目の前にはティファニーの1点もの宝飾品が飾られるようなガラスケース。その中には「リアル・ピカチュー」! つぶらな瞳(でも真っ赤っか)、黄色い地毛に茶色いカミナリ模様のメッシュ、もちろんシッポもカミナリ状。後ろ足で立って小躍りするようなポーズ、かわいい。不覚にも「萌え」てしまった。後から入って来た何人かの若い女子も口を揃えて「キャー、カワイイ!」。でもこれ、実は「ドブネズミ」なんですよね、ほら、股間には大きな金玉。センター街で捕まえて来て、プリーチして、剥製にしたんです。俺はそう聞いて完全に惚れた。「!‥‥‥」と女子。不潔で不逞な忌み嫌われるドブネズミの死骸、にもかかわらず目の前のそれのカワイさは歴然としてある。頭のなかでイメージと事実が股裂きになりさらにそれが混交・合体するのだった。
 20代のアート集団chim↑pomによるこの作品『スーパー☆ラット』、昨年末の展覧会後もいまだに方々で話題沸騰中だが、それにしても「センター街のドブネズミをピカチューに仕立てる!」って、まるでガキのイタズラ!じゃん(だいたいタイトルだって村上隆ネタのダジャレだし)。たしかに「アート」と呼ばれているもののなかには、もともと美しい昆虫で高貴な作品を作るとか、もとは可愛い動物を輪切りにしてグロい作品に仕立てるとかあるけど、それってただのフェチに過ぎないんじゃないの、それに対して「最低」の素材で「高級」というか「高好感度」なブツを作るこっちのほうが断然「アート=批評」性が高い、と思う。「資本主義社会の光と影」をクールに批評する的なシミュレーショニズム・アート? もちろん「ピカチュー=ネズミ」というコンセプト自体は単なる記号操作で、ぬくぬくと炬燵に入ってダベってる時にでも出てきた「思いつき」(ピカチューってさー、要はネズミだよね。)かもしれないが、実際問題、真冬の深夜にゴミの中を必死になって追いかけ回して捕獲して、冷凍保存、剥製作業をしないことには作品=イタズラに辿り着かなかったわけで、その汗と涙と愛情あふれる(?)「アクション」の記録ビデオを展示に組み込むことで、シニカルな記号の戯れからはみ出るリアルな剰余がもたらされたのだ。
 先頃、彼らは広島市現代美術館の公募展「Re-Act」で見事グランプリを獲得した。受賞作『サンキューセレブ、アイム・ボカン』はヴィトン(村上隆仕様)のバッグ&財布などセレブ用品とセレブの(?)等身大石膏像を爆破した残骸によるインスタレーションだが、これも、もとはセレブって素敵!というカワイイ一言に端を発し、セレブと言えばチャリティ、ボランティアね→カンボジアで地雷撤去とか?→除去した地雷ってきちんと処理しないと暴発するらしいよ→やっぱセレブは自己犠牲でしょ、というオチに達したわけだ(以上、会話を推測)。ここでも、素敵なセレブと悲惨な戦争を結びつけることを思いついたばっかりに、実際にカンボジア入りして押し掛けボランティアで地雷除去作業に携わり、地雷オタクのチームリーダーや地雷被害で手足のない子供たちとの心温まる交流までなしとげてしまう、それが彼らだ。
 さて、今回の個展は、マジ犯罪スレスレのイタズラあり、ダジャレ的作品(「ヴェネチア・ビエンナーレTDS」って一体…)ありの「オー・マイ・ゴッド!」(絶句)てんこ盛りらしいが、目玉となるのは自殺の名所、富士山の「樹海」をテーマにした作品だという。当然、一度迷ったら出て来れないという森の奥深くへ分け入りキャンプを張った。死ぬほど美しかったというその森で見たものは!? そして奇跡的に生還した彼らが持ち帰ったものは?! 掲載写真は比較的明るい小ネタの一つ(とはいえ、自殺現場の横で延々と木をくり抜いたのね!)だが、もっとディープでダークな衝撃の何かが待ち構えている由。怖いよ〜。

汗と涙と愛情あふれる(?)アクション経由のリアルな剰余
STUDIO VOICE』、INFASパブリケーションズ、2007年8月号

「子供の国のダンス」便り(5) オトナは「運動」がキライ!?

(初出:『舞台芸術』9号、2005年 「子供の国のダンス」便り は『舞台芸術』誌に連載のダンス時評。1〜4はココに掲載。)

S:前回は「時評」をお休みさせて頂き、木村覚さんに「コドモ身体」について色々とご意見を伺いました。おかげ様で「コドモ身体」論も少し大人に、じゃなかった成長‥‥しちゃうと大人ってことか(笑)、まあいいや。で、どうなの、最近のダンスは?
K:まずは、何と言っても「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」[1]問題でしょう。
S:落ちちゃったね、チェルフィッチュ。4月の岸田戯曲賞受賞に続いて二冠制覇したら痛快だったのになー。アンタ、某誌で競馬予想みたいなふざけたことしてたでしょう、チェルフィッチュ=大穴、とかって。
K:いや、だけど実際に蓋が開いて、8組の作品を比べてみれば、なおかつ本番の出来も考慮に入れてみれば、ブッチギリで一等なのはチェルフィッチュ[2]だって、歴然としてたよ。
S:で、結果としては、キミの予想では「ダークホース」だった人が受賞したわけだ。
K:隅地茉歩さん。これは唯一、未見の作品だったんで、データ不足ということで「ダークホース」としたわけだけど、本番のパフォーマンスもよくわかりませんでした。っていうか「見えない!」んだよ。すごく小さな動きで、ひょっとしたら繊細なダンスが展開されているのかもしれないけど、照明が極度に暗くて見えない。見えないものは評価不可能じゃん。俺は審査員の列のすぐ後ろの席だったんだよ。一体どういうことなの?
S:まあ、リコーダーの生演奏によるバロック音楽とか、その暗い照明にぼんやりと浮かび上がる大きなテーブルに並んで座った男と女、とか「雰囲気」はあるんだよな。でも、動きのディテールは見えなかったね。だから、結局その「雰囲気」と雰囲気作り=「演出」に対しての評価ってことになる。
K:でも、それは明らかに「振付」賞としておかしい!審査員長だってことあるごとに「これは作品賞じゃない、あくまでも振付を見る賞なんだ」って公言してたわけだから。そうそう、本選会の翌日に一次選考でもれた中から「でもちょっと捨てがたい」という人を審査員に見せるショーイングがあったのね。で、ちょうど僕の隣に座ってたイギリス人審査員の女性が、ほとんどダンス見てないで、ずっとメモを取ってんだよ。ちらっと見て(1秒)、すぐメモにかかる(9秒)。およそ90%の時間は下を向いてるわけ。これじゃあ、そこで何が起こったか、そこで何が持続していたか、いいダンス(振付)かどうか、わかるわけない。バカじゃないの? で、アワードの審査の時はどうであったか? メモ取ってないで、ちゃんと見ていたか? 誰か目撃者がいたら、お知らせください。つまり、あれだね、そいつはダンスを「運動」としてではなく、「絵」「図」「フォルム」「記号」としてしか見ていないわけだよ。それって、僕が『デザイン主義批判』とか『スティル/ムーヴィ』とか[3]、さんざん書いてきた問題なんだけどね。
S:でも、そういう見方をしている人はいまだに多そうだな。普段公演に行ってもこっちは当然ダンスしか見てないから気づかないわけだけど、結構ダンス批評家で客席でメモってる人いるみたいだよ。○○さんとか、さ。ま、仮にもダンスの専門家がそうだったっていう事実を、しかも目の当たりにしちゃったんで、ショックだったんでしょ、わかるよ。まあ、落ち込むよな、やっぱ。
K:うーん。今回のチェルフィッチュ評価に関しても、その動きが(既成の)ダンス的なボキャブラリーによるものではないから、ダンスに見えない、ダンスとは認められない、というジャンルをめぐる議論という話じゃなくて、結局、日頃からダンスを「運動」として見てないから、それがいかに精緻に「振付」られているか「見えない」っていう情けない話なのかも。
S:ヘタすると「テキトーに(即興で)ダラダラと身体を揺すってるだけじゃないか」とかね。そりゃあ、作品を一言で言うとすれば「ダラダラと身体を揺すっている」ってことになるけど、それはほとんどの時間よそ見しててもわかることで、ダラダラする身体の様態を追っていくことなど絶対しないんだろうな。まあ、実際の上演を見ないでテキストだけで賞を出した岸田賞ってのもアレだけど、我々の一般的な「演劇の見方」も身体をネグってる面がある。つまり、目の前に俳優の身体があるにもかかわらず、セリフ&ストーリー=意味内容だけを「聴き取る」という受容の仕方で事足りてしまう、と。
K:「肉体は哀し」ってね‥違うか(笑)。「ダメ身体」、「コドモ身体」に対する批判っていうのも、「振付」の良し悪し以前の問題なんだな。「運動」が見えてないんだから。単に、パッと見の「だらしなさ」、そして、もちろん「だらしなさ」という身体(存在?)の在り方に対する嫌悪・フォビアに過ぎないのかもしれない。「ハゲ・デブ・チビ、キモーい」「ホームレス、臭い、寄るな、っていうかオマエ死ね、害虫駆除してやる、ボコボコ」っていうような。ヤダねー。まあ、逆に、そういうオマエは結局ただの「ダメ専」じゃないか、やーいこの変態野郎!って言われかねないわけだけど。
S:とにかく、感性の問題にしちゃうとマズい、と。そういえば「人類は運動というものが嫌いなのだ」って、蓮実重彦も言ってたな。
K:『スポーツ批評宣言』[4]!けだし「名言」だね。蓮実先生は、映画をフィルムの「運動」として見ないで、テーマやストーリーや演技で見る、そういう見方とずっと闘ってこられたわけで、このことはダンスにおいてもまったく当てはまる問題でしょう。
S:トヨタの話に戻るけど、今回は他にも結構いい作品あったよね。
K:そうだよ。アワードの謳い文句「年齢、キャリア、ジャンルを問わず」というのが、今回ほど文字通りになったのは初めてじゃないかな。何で今年はそれが実現できたかといえば、単純にそういう人も応募するようになったからで、つまり、アートとか演劇とか他のジャンルの作家にとっても、ダンスというものが自分の表現のメディア、ツールとして意識にのぼるようになってきたってことかも。
S:それなのに、「これはダンスじゃない」とか「もう十分キャリアもあることだし、いまさら」っていうんじゃね。
K:黒沢美香とか岡田智代とかね。でも、実際のところは「年齢・キャリア問題」というより、やっぱり、ダンスを「運動」として見ないという問題だったと思うな。例えば、岡田さんのこの作品『るびぃ』を「メモりながらの片手間」で見たら「椅子を引きずりながらゆっくり歩き回る。椅子の上に上り、足元が不安定な状態でバランスとりながら揺れる。バランスが崩れて落ちる。片手に持った椅子が円を描くように自分を中心にしてゆっくり回る」って、ただこれだけってことになっちゃう。だけど、ほんとうはそこには、持続のなかの微細な移り変わり、グルーヴがしっかり存在している。
S:基本的にはいわゆる「ミニマリズム」のダンスってことだけど、なおかつそこに「情感」もある。なんて言うか「時間を見る」いや、彼女とともに我々が「時間を味わう」、そんな作品だったね。
K:だからさー、今どきのダンス専門家なんてのは、世の中には「ミニマリズム」というものが存在するということすら忘れちゃってるんじゃないか、すでに。その上、微細な「運動」も見ない、見えないってんじゃ、どうしようもないね。僕は最近はあんまり「至芸」とか、それを見抜く「見巧者」とか、眼の精度にかかわることは、あまり言いたくないんだけど、ちょっとヒド過ぎるんじゃないか、ダンスを見るプロの水準がそんなだとしたら。
S:それはもしかしたら、最近の欧米のダンス・シーンの状況っていうか、全体的な水準(の低下?)が関係してるのかもね。あんまり最近情報が入ってこないけど、なんとなく停滞ぎみのような感じはするよね。ひところと比べて。
K:こないだ、金森穣がプロデュースして、海外で活躍する日本人ダンサーを集めたガラ・コンサートがあったね[5]。で、まあジリ・キリアンとかオハッド・ナハリンとか、あとそれ系統の若い振付家の作品を踊ってけたど、ほんとにつまんなかったなー。まあ、ダンサーの水準が、結局バレエが基本のああいうものを踊るにはちょっと、っていう面もあって、でも皆さんネザーランド・ダンスシアターとか、それなりのカンパニーで活躍されてるわけで、あれが今の欧米のコンテンポラリー・ダンサーの水準(以上)ってことでしょう。俺なんかの目から見ると、やっぱ「ヘタ」だなーと、悪いけど。で、とにかく作品自体も面白くない。特に、若い振付家のものは、クリシェの使い回しというか、デジャヴュ感が強かった。平均してああいう状況だとしたら、完全に停滞してると言わざるをないな。ヨーロッパは。唯一、安藤洋子と新しいフォーサイスカンパニーのメンバーが踊ったの[6]だけは、面白かった。
S:ああ、あれは最高にくだらなかったなー。他の作品がどれもテイストが同じで、シックで硬質な、要するに「暗くて気取った」ものだった中で、バカ明るくハジけてた。しかも、ダンスとして新しい事もちゃんとやってるし。
K:構成・演出のクレジットが安藤洋子と日野晃となってるわけだけど、今年はじめに武道家の日野晃がフォーサイス・カンパニーに招かれて、日野メソッドによるコンタクトを教えて来たんだよね。ちょうど、フランクフルトに同行取材した押切伸一さんが書いた本[7]が出たところだけど。
S:もともと、フォーサイスは「インプロヴィゼーション・テクノロジー」ってことで、複数の身体が即興でダンスをジェネレートしていく探求をずっとやってたわけだけど、それは空間と他のダンサーの身体に「幾何学的」に自分の身体を関係付けていくという方法だった。日野さんの場合は、「feel&conect 」と言うように相手の身体と力を感じる、そのために身体的にもそして意識の上でも相手との「つながり」を維持し続ける、というもの。フォーサイスのは「視る→頭の中で高速演算→動く」、それに対して日野理論は「感じる→動く」となるので、データのロスやタイム・ラグ、処理結果の間違い(失敗)の確率が飛躍的に低くなるんじゃないかな。
K:世界を認識するに「視覚」だけに依存していたのが「知覚すべて」つまり「身体」で把握するようなる、ってことかな。さっきのダンスにおける「運動」を見れないって話も、それは「運動=ダンス」を視覚的にしか把握しようとしないからで、「運動=ダンス」は体感的な把握、「運動=ダンス」は見る者もとともに生きることでしか把握できない、ってことなんだね。
S:この方法のスゴさは、ダンサーどうしが実際につながっていない場合、離れて向かい合っている時にこそ発揮されるんですよ。対戦相手と「見合う」わけ。で、この場合はどうしても視覚情報に頼り勝ちになると思うんだけど、普段の稽古で常に相手と繋がっているでしょ、その時の身体の意識を延長させることによって、ほとんど身体的に相手を感じることが出来るようになるんじゃないか。と思うんだよ。
K:ああ、それ安藤作品にも出てきたね。いや、見合っている2人の間の空間に、ちゃんと線が見えたよ。あれは、すごいスリリングだったな。
S:とにかく、フォーサイス・カンパニーは今後継続して日野さんのワークショップを受けていくらしいから、その成果が今後出てくるだろう。すると、またしてもフォーサイスの独走状態が続くってことになるね。それ以外はみんなますます保守化していく、と。
K:それもこれも「人類は運動が嫌い」だから、ってか?
S:そういえば日野さんは元はドラマーだったんだよね。フリー・ジャズ。伝説の阿部薫のトリオ。
K:デタラメ、純粋運動の人なんだな、そもそもが。
S:そういえば、「ローザス」の、こないだのマイルスのはどう?ジャズの歴史的名盤、電子マイルスの第一弾『ビッチェズ・ブリュー』(69)で踊る!ってヤツ[8]。
K:うーん、微妙。これまでのローザスと比べたらちょっとはグルーヴ出てきたから、そういう意味では評価してもいいんだけど、逆に言えば、マイルスの音があんだけグルーヴィなのに、このダンスのグルーヴのなさはどういうこと?っていうのが本当のところだな。だから、インテリはダメなんだよ、って(笑)。もう、よせいばいいのに、調子こいて今度はコルトレーン『至上の愛』で踊るだと!
S:何で、ケースマイケルはジャズ・シリーズいきなり始めたのかね?
K:要するに「ジャズ=インプロヴィゼーション」ってことじゃないの。『ビッチェズ・ブリュー』に際しても、フランクフルト・バレエにいたダンサーに「インプロヴィゼーション・テクノロジー」教えてもらったりしたようだけど、遅いって(笑)。フォーサイスのほうがもうどんどん先に進もうとしている時にさ。あと、ファンキー・ダンスも習ったって。でも、実際、作品でそれ系をもっぱら踊ってたのはその教えた先生本人だったよ。「本気さ」っていうか「リスペクト」が感じられないね。
S:つまみ食い。まあ、何となくハイアートによるサブカル搾取っぽいな。文化的コロニアリズム
K:そこいくと、マリー・シュイナールは違うね。あの人は奇特な人ですよ。彼女もまた、欧米のダンス環境から出発して、かつては現代美術(パフォーマンス)的あるいはミニマリズム的なアプローチを模索したりもしたんだけど、世界中を放浪するなかで出会ったヨガやインド舞踊、バリ舞踊への傾倒によって、彼女独自のダンスを形成していったんだよね。
S:なんか、ルース・セント=デニス[9]みたいだな。文化人類学者の目線というより、リスペクトする者の態度ってことね。
K:しかも、それがただのコピーには終っていないわけ。こないだの来日公演[10]でやった『ショパンによる24の前奏曲』なんか、音楽とダンスが奇妙にミスマッチなマッチングでさ。
だいたい、「前奏曲集」って、ショパンの曲としても、イマイチ地味だし、あんまり好きじゃないんだよ、僕。子供の頃、ピアノ教室で弾かされたけど。だから、これ使ってこんなグルーヴィなダンスが可能とは思わなかった。
S:クラシックの名曲で同名のダンス作品を作る、というのは(モダニズムとしての)20世紀ダンスの「伝統」ではあるよね。ジョージ・バランシンからキリアン、ローザス(!)にいたるまでの。
K:たしかに。でも通常そこでは振付家による音楽の構造分析・注釈・批評が開陳されるわけでさ。ところがシュイナールの場合は、身震いし、身をよじり、ヘッド・バンキングし、拳を振りかざす‥‥、ショパンでだよ!
S:まあ、彼女の好きなアジアの舞踊の身体って、痙攣とか突っ張らかりとか捩りとか、そういう身体だわな。
K:でも、見え方としてはさ、我々がフツーの「ダンス・ミュージック」を聴いて踊り出す時のように、音楽に対して自然に身体が反応して勝手に動き始める、そんな感じなんだよ。それは何らかの「システム」に則って操作されることで成立する運動というより、音楽に共振する身体からこぼれ出す「震え」であり、身体のあらゆる部分が喜びにわなわなと震えている、そういうダンスなんだよ。だから、それは一瞬一瞬姿を変えるわけだけど、それが、しばしば「動物」の仕草に見える。前肢立ちしたネコやイヌの手つきとか、擦り合わされる首と肩、とか。
S:ま、そういうところにまたアジアの舞踊の身体が透けて見えるわけだけどね、ミミクリーとか。
K:だからー、音楽はショパンなんだってば!そういう奇怪なダンスがショパンの欧風浪漫な音楽にシンクロしてるんだよ。で、見てるこっちの身体もノリノリになっちゃうんだぜ、それってスゴくない?
S:たしかに、最近の欧米のコンテンポラリー・ダンスとしては珍しい作家であることはたしかだね。しかも、今引っ張りだこ状態らしいじゃない。フェスティバルとかでも。
K:でも、結局は「色モノ」って扱いなんじゃないの。どうしたって「主流」にはなり得ないでしょう。たまには珍味もいいかな、っていうさ(笑)。何であいつらはヤミツキにならないかなー。こんな旨いもん。今回上演されたもう一つの『コラール』なんか、クライマックスシーンでシュイナール流のケチャが展開されるんだけど、「ハッハッ、ハッハッ」というかけ声=呼気音がいつしかハイになった者のあの「ヘラヘラ笑い」に似てくるんだよ。で、見ているこっちも、ヘラヘラがこみ上げてくる。ってことは、ドーパミン出てるわけよ、マジで。あれ?そう言えば、最近も似たような感覚を体験したような。
あ、思い出した。黒田育世の振付を踊った金森穣とNoism。
S:ああ、こないだの。『ラストパイ』って、そんな作品だったの?
K:金森穣が、ごく単純な振りの繰り返しを延々40分、立ち位置キープで切れ目なく踊り続ける。金森君に人が期待するであろう「技巧を駆使した華麗なダンス」ではなく、持久走のようなストイック、というか要するに「地味」なダンスを踊らせるわけ。
S:ベジャールの「ボレロ」みたいな感じ?
K:いやいや、「ボレロ」なんてたかだか17分でしょ。こっちは40分だよ。体力的にも40分は尋常じゃないよ。金森君の判断で自分の体力ギリギリ=40分ということが決定したらしい。案の定、ネットの某スレにも「穣サマにあんなことさせるなんて、ヒド過ぎます!」的な書き込みされてたよ(笑)。この作品はもともと4月に初演された黒田のソロ『モニカモニカ』をベースにしていて、シンプルないくつかのフレーズの組み合わせで、とにかく自分を「踊り倒す」ということだけをコンセプトにしてるわけ。育世はこないだ岡山で90分も踊ったらしい。当然倒れるまで。まあ、「コドモ」はとんでもないこと考えつくよ、ホントに。
S:黒田育世なら「ああ、アイツはな」って感じだけど、欧米仕込みの正統派エリートダンサー金森を「体力を使い果たすまで、ぶっ倒れる(寸前)まで」追い込んだわけだ。天下の金森にこのタスクを課した黒田もアッパレ(してやったり!)だが、一瞬たりとも手を抜かず最後まで踊り切った金森もさすが、って感じ?
K:いやー、マジですごくカッコ良かったよ、穣クン。と言っても「スポ根」な感動なんかじゃなくてね。踊れば踊るほどに彼の身体は「マッチョ」から遠ざかっていく、中性的というより「フェミニン」な姿に変貌していった。このダンスは存在=身体の誇示ではなく消尽することが目指されている。くっきりと一つ一つのフォルムを刻み込むのではなく、一瞬一瞬の閃く残像が持続する「運動」(!)の流れのなかに融けていく。そういう身体が金森穣から出てきたんだよ、画期的じゃない?
S:金森以外のダンサーたちはどんなだったの?
K:あ、肝心なこと言い忘れてた。舞台下手のスポットの中でひとり黙々と踊る金森がいる、で、そことは一切交わる事なく、Noisimのダンサーたちが配されてるんだけど、そっちはそっちで、いわば「レイヴでハイになったバカ者たち」が奇声を上げつつ完璧にナンセンスな反復遊びにハマっていたりする(このあたりが、さっきのシュイナールの話とつながるんだけどさ)。これは、金森の没入する身体の「無為」と表裏の関係にある。この2つの無為はどちらもしつこい「反復」によって成立しているしね。つまり、金森的な没入状態というのもまた、レイヴのダンスにしばしば見られるじゃない。一人孤独に黙々と踊る、でもすごくエンジョイしてる、という。視られることなど意識する暇もなく、ただただ「踊る喜び」それ自体であるダンス。だから、この舞台にいたのは全員が「踊るバカ」「踊りバカ」ってことだよ。
S:バカは伝染する。で、それを見ている者たちもまたバカになり、客席で静かに熱く「踊っていた」のだった、って感じスか?
K:まさに、その通り!で、ドーパミンも出た、と。それはともかく、この公演はある意味「事件」だったんじゃないかな。金森と彼のカンパニ−Noismが、コンドルズの近藤良平とか黒田育世の振付で踊ったということがね。
S:なるほどね。その公演では三人の振付家に作品を委嘱したんだよね。近藤、黒田と、何故かアレシオ・シルベストリ[11」。
K:アレシオ君の作品だけ、バリバリの「ヨーロッパ、アート、スノビズム」でしたね、やはりというべきか。フォーサイス(90年代)、しかもパチもんの。
S:ははは。粗悪なコピー商品ね。見ないでも目に浮かぶよ。
K:金森作品のほうがはるかに品質もいいし、だいいちオリジナルだよ。まあ、カンパニーとしては、こういう系のもの出来ますよっていうのはひとつ売りとしてあるんだろうけどね。サンプルとして。とにかく、今回の眼目は「金森穣、日本のコンポラと出会う」ってことだから。
 で、近藤良平はさすがに手堅い職人仕事で、カンパニー・メンバー=「優等生」の「ハズし」「脱力」に成功していた。みんな、照れくさそうに、ちょっとぎこちなく(っていうのも変だけど)、でも明らかに楽しんで「コドモ身体」してたよ。でも、とにかく圧巻だったのは黒田育世の「ラストパイ」だったな。
S:そもそも、欧州で活躍した後帰国し、新潟の公立劇場りゅーとぴあの芸術監督に就任した金森穣こそは、90年代日本で果たされなかった欧米の正統的ダンスのホンモノの才能で、彼の登場によって、日本のダンス地図が大きく塗り替えられる可能性も出てきたわけだよね。ニブロール以降の「コドモ身体」「ダメ身体」から、国際標準に再度シフトするかもしれない、っていう。まあ、そうしたい「(抵抗)勢力」は潜在的に存在するわけだから。「コドモ身体」は恥ずかしい、っていう(笑)。
K:ところが、今、この場所ではとにもかくにも「コドモ身体」がだんだんと幅を利かせるようになってきている。金森が日本で活動していくということは、好むと好まざるにかかわらず、それらとの交通が不可避なわけですよ。とすれば、金森の変化がさらに新しい可能性をもたらすことになるのではないか、と。
S:フフフ。何か「いたいけなコドモに悪いこと教える大人」みたいな話だね。
K:でも、じつはその逆だけどね。せっかく立派な青年になって故郷に帰ってきたのに、ちっとも大人になれてない「元先輩」とかに付き合わされて、「バカ」やらされる羽目に的な(笑)。


[1]「トヨタ・コレオグラフィー・アワード2005」は一次選考によりノミネートされ、最終審査会「ネクステージ」(2005年7月9、10日 世田谷パブリックシアター)の舞台で作品を上演した。ファイナリストは以下の8名。
新舗美加(ほうほう堂)、岩渕多喜子(ダンスカンパニー・ルーデンス)、宇都宮智代ほか(yammy dance)岡田利規チェルフィッチュ)、岡田智代、黒沢美香、鈴木ユキオ(金魚×10)、隅地茉歩(ダンス・セレノグラフィカ)。
審査の結果、「次代を担う振付家」賞は隅地茉歩に決定した。なお、今年度の審査員は、天児牛大(審査員長)、バル・ボーン、塩谷陽子、鴻英良、ディアンヌ・ブッシュ。
[2]チェルフィッチュの上演作品『クーラー』は、2004年7月「We Love Dance フェスティヴァル」の委嘱により作られ、京都アートコンプレックスで初演。この連載でも取り上げている。「子供の国のダンス」便り──正しい「だらしなさ」について(『舞台芸術』7号)また、下記ページにも掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[3]『デザイン主義批判(序)』(初出:「ダンスの空間デザイン」(原題)『PT』7号 1999年4月 れんが書房)、『スティル/ムーヴィ』(2001年10月、ローマ第3大学におけるシンポジウム『Return to Hijikata』にて発表)。いずれも、筆者HP内、下記ULRに掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[4] 蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(青土社 2004)
[5]金森穣 no-mad-ic project 2[-festival] 8月10日〜13日 めぐろパーシモンホール
[6]『3A』構成・演出:安藤洋子、日野晃 振付・出演:アンデル・ザバラ、シィリル・バルディ。
[7]日野晃・押切伸一ウィリアム・フォーサイス、日野晃に出会う』(白水社 2005)
[8]ローザス『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』彩の国さいたま芸術劇場 4月
[9]ルース・セント・デニス Ruth St.Denis (1877-1968) イサドラ・ダンカンと並ぶアメリカン・モダン・ダンスの先駆者。彼女も世界中を公演旅行し、必ずその地のダンスを一つ以上覚えてレパートリーに加えていった。というより、彼女のダンスじたい、インド舞踊を始めとした様々なオリエンタル・ダンスのエッセンスによって形作られた、と言える。
[10]カンパニー・マリー・シュイナール日本公演 3月 シアター・コクーン。上演作品『ショパンによる24の前奏曲』『コラール〜讃歌〜』
[11]Noism05 「Triple Bill」  三軒茶屋世田谷パブリックシアター
上演作品はアレッシオ・シルヴェストリン 『DOOR INDOOR』、黒田育世 『ラストパイ』、近藤良平 『犬的人生』

(初出:『舞台芸術』9号、2005年)

「決起」から「抵抗」へ(の撤退?)

 今回このプログラム「Hijikata Tatsumi /異言」においては、土方巽を結節点として60年代日本のアートを当時の緊迫した政治状況に対する応答として再考することになるはずだが、土方の創作活動において、その「暗黒舞踏様式」、こんにち人が「舞踏」として名指すであろうユニークなあのスタイルが形を成したのは、じつは70年代になってからだ。そして、それは、土方のダンス(のみならず、アート全般について)の「政治」から「美学」へのシフトとみなされている。なるほど、68年のいくつかの「決戦」の敗北を境に、学生を中心とした反体制運動=革命の機運は急速に萎み、それと同時に芸術表現全般からあからさまな政治性は失われていったようにも見える。
 そこで、今一度、68年の土方のダンスと72年の土方の舞踏を比べて見てみたい。まず、68年、まさに劇場の外で路上の闘争の激しさが増していくさなかに上演された『肉体の叛乱』と題された作品。それは、ストイックな鍛錬と断食によって鋭利に研がれた凶器のごとき身体が、溜め込まれた「力」が堰を切って溢れ出るに任せる、「決起」する革命の身体、というにふさわしい踊りであった。土方はこの舞台の後、4年間自ら踊ることをやめ「暗黒舞踏様式」を模索することになる。
 そして72年に大掛かりな連続公演が企画され、その中で「暗黒舞踏」が姿を顕わす。その白眉として名高いのが『疱瘡譚』である。よく知られる土方のソロ・シーンはタイトルが示す通り癩病者(ハンセン氏病患者)の「立てなくなった身体」のダンスである。地べたにへたりこんだ「足萎えの踊り」。わずか数年前68年の土方を鮮烈に記憶している者にしてみれば、あの「屹立し激した荒ぶる革命の身体」は、今や「腰が抜けたボロボロの敗北の身体」となり果てた、というふうに見えたかもしれない。しかし、実際はそうした否定的な評価を下すかわりに、そもそも健康な身体の十全な活動を誇示するものである「ダンス」という表現形態の「常態(ノーマル)」を逆さに志向するものとして、あるいはインターナショナルなモダニズムの身体ではなく繊細なアジア的な身体に潜在する微細かつ豊穣なミクロコスモス(インナースペース)の開示、といったような、要するに「美学」的な価値判断によって評価されてきたのだった。すなわち、政治から美学への退却、政治的敗北を美学によって忘却すること。批評家や観客が無意識に行ったのは、おそらくはそういうことだったのだろう。
 けれども、残された映像で見るその踊りからは、挫折感・無力感やルサンチマンの気配は感じられず、むしろ明るく清々しい。
そこで提案。これをリテラルに「もう歩くのはやめた、立つのもやめた、やめだやめだ。今から俺は梃子でも動かないと決めたのだ。」という、生産主義的な社会への「不服従」、「抵抗」の表明のダンスと見たらどうであろうか? そう、メルヴィルの『バートルビー』だ。上司からの命令を"I would prefer not to."という婉曲な言い方でことごとく拒否するバートルビー。彼はやがて会社で寝泊りを始め、鍵をかけて籠城するにいたる。「梃子でも動かない」という「抵抗」になす術のない雇い主は会社そのものの移転を余儀なくされる。物語の結末こそ悲惨だが、主人公の徹底した「何もしないこと」への忠実さは奇妙な爽快感を与える。そう、要するにこれは「職務放棄」の貫徹ということで、近年、労働運動における「抵抗」の寓意として取り上げられることになった小説なのだ。『疱瘡譚』における土方巽を、このバートルビーの振る舞いのようなものとして、つまり「決起」の挫折の後になお継続した、また別のかたちの「抵抗」とみなすことが出来ないだろうか?
 さて、ここで2015年に跳ぶ。 2011年の原発事故以降急速に広がりつつある、反原発、排外主義に対するカウンター、反安保法制といった社会的不正義に対する「運動」。それらの抗議行動における新たな「スタイル」としてしばしば、学生団体SEALDsの開発したすこぶるグルーヴィな「シュプレヒコール」が挙げられるが、もう一つ、「シットイン(座り込み)」という古典的な戦術の思いがけない復活がさまざまな闘争の場で見られた。例えば、排外主義者のデモ行進を阻むため、あるいは安保法案を強行裁決しようと国会へ向かう議員たちの車を阻むため、それはごく自然に起こった。仰向けに地面に寝そべる。脱力して身を投げ出す。警官がそれを引き剥がす。抵抗はしない。そのかわり引き起こされたらすぐさま前に出てまた寝そべる。いきり立ち拳を振り上げ屹立する身体とは真逆の、しかしそれはまぎれもなく「抵抗」の身体だ。
 では、日本社会にひさかた振りに訪れたこの「政治の季節」において、アートは、なかんずくパフォーマンスする身体はどうなっているか? というわけで、光州にてとくとその目でたしかめて頂きたいのだ。


(※ 『Our Masters 土方巽/異言』展示風景の動画をアップしました。僕がi-Phoneで撮影したものなので手ブレ等見づらい点はご了承ください。
https://www.youtube.com/channel/UCjO1DPq9VhnourBWt3tU0UA …)

「 トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979 」

 たとえば、2人が手をつないで扇状に斜めって歩行する(ちっとも前に進んでないよ!)、とか、ロープに吊られてビルの屋上から壁を直立歩行で降りてくる、あるいは部屋の四面の壁を歩き回る(F・アステア!)、あるいは、横向きで等間隔に並んだ6人が順次ステップを踏み始め、後ろの人に押されて前進する(アコーディオンの蛇腹ね)……、DVD『トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979』に収められた彼女の初期作品は、冗談なのか?という「ダンス」ばかり。いや、それは間違いなく真面目な「メディウム・スペシフィックの探求(モダニズムのお約束)」なのだけれど、今どきのダンスには稀な「爽快感」「すがすがしさ」を感じさせる。「笑い」はその「開放感」により起こるのだろう、禅の「公案」のように。
 教科書的なおさらいをすれば、60年代、ブラウンらの参加した「ジャドソン・ダンスシアター」において、ダンスのファンダメンタルな問い直しがあった。まず、「抽象化」。ダンスとは、意味や感情を「表現」するものではなく、純粋な運動と素材としての身体である(そこには当然ケージ/カニングハムの影響がある)。そしてさらに、「選ばれた身体」による「ヴィルトージティ(超絶技巧)」の否定。それはつまり、「リベラル」な行為と「デモクラティック」な身体を!ということだろう。(※ 参考資料として、ジャドソンの盟友イヴォンヌ・レイナーによる、自らのダンスの方法を整理した「Torio Aの分析」からのチャートを挙げておこう→ http://d.hatena.ne.jp/sakuraikeisuke/20060501
 ところが、今日の評価は概ね、それらは既存のダンスに対する「反対のための反対」のためだけの「やせがまん」「スノビズム」で、「無味乾燥」な「実験」であった、だから結局、袋小路に陥って雲散霧消、その後ようやく正しいダンスの歴史が再開され「コンテンポラリーダンス」が花開きました、めでたし、ということになる。しかしこれは、現在時から見たいわば「コンテンポラリーダンス史観」と言うべき誤読で、現にこうしてDVD化されたブラウンの初期作品を見れば、そこには彼らが発見した「ふつうの身体、ささいな行為の見せる生き生きとした表情」が、正しく「ダンス」と呼ぶにふさわしいものであることが分かる。初期の代表作『アキュムレーション(蓄積)』(71)は、ヒッチハイカーのように親指を立てて手首を振るという小さな動作から始まり、反復の度に一個づつ動きと動かす部位が付け加えられ(蓄積!)、ダンスがさざ波のように全身に波及していく「こんなに簡単なことからこんなに複雑繊細なダンスが!? 」というソロ。あるいは『ウォーター・モーター』(78)。これもごく簡単な日常動作をサンプリング、よくシャッフルしてつなげる又は同時に行う、というソロ作品だが、その中には「よろける」とか、(何か忘れ物を思い出した時のように)「急に動作を中断して方向転換する」、(沸騰した薬缶を触った時のように「あちちち」と)「手先を振りながら同時に足を後ろに跳ね上げる」(靴先の泥を地面で拭き取るように)、といった文脈から切り取られているゆえに不可思議な仕草が多々含まれており、先が読めないスリリングなシークエンスが展開する。さらに映像の後半はそれをそのままスロー再生しただけのものだが、結果、採取された元の日常行為の原型=意味が完全に消え去り、かわりに、隠れていた奇妙なラインが浮かび上がるのだ。
 なるほど今の欧米のダンスシーンにおいて、こうした試みの継承は(フォーサイスを例外として)ほとんど見当たらない。が、一方で妙に既視感というか親しみを抱くのは、それが我々が最近目にする「日本のコンテンポラリーダンス」のあれこれ(ほうほう堂とか身体表現サークルあるいはボクデス…)に似ているからだ。ダンスの歴史や教育もないこの場所で、それゆえ既成の(スタンダードな)ダンス技術やメソッドを持たず、おのおのが勝手に「捏造」するということは、当然「ダンスの条件」を問う行為、「身体というメディアの抵抗」を確かめる作業にならざるを得ないのだから。
 さて、トリシャ・ブラウンの今は? 最近作『グルーヴ&カウンター・ムーヴ』(2000)では、かつての様々な原理的な試みの「蓄積」がすべて投入されているのが見て取れる。軽いバウンド&スキップ、気まぐれかつ唐突な方向転換=フェイント、身体のパーツ単位のねじり、ひねり等々。だが、それらの屈託のない身体・些細なことどもが、あたかも偶然に出会い、交差することで、驚くほどスリリングな光景が展開されるのだ。デイヴ・ダグラスのグルーヴィなスコアに乗って、全く力みのないリラックスした身体が、鼻歌まじりにチキンサンドを作るかのように踊る! それはすこぶるグルーヴィ(題名通りの「グルーヴィな対旋律」)であり、エレガントですらある。
(初出 2006年「 美術手帖」5月号)