「コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」

7/16 国際共同研究「日本の舞台芸術における身体― 死と生、人形と人工体」(ボナベントゥーラ・ルペルティ主宰)
第6回研究会
コドモ身体・再考 〜 2000年以降の日本の舞台芸術における身体」レジュメ


1.「コドモ身体」Child Body

「2000年代の日本のダンスの新しい傾向」を表す言葉として命名(2004年 桜井)。
とりわけ「ニブロール」(矢内原美邦)。
・おのれの身体に対して過不足なく力を働かせることが出来ない(しない)、重心移動をはじめとして、身体コントロール全般が「ユルい」子供のような「身体-運動」。
・「きれいな、正確な、スムーズな」身体操作ではなく、むしろ「ギクシャクしていて、ブレたり軋んだり、つっぱらかったり」するダンス、
・「すっと真っ直ぐ姿勢良く」ではなく、「フラフラ、ダラダラ、揺れている」身体のダンス。
ダンスの規範(理想)からズレた身体-運動。
素人・生育不良・子供な身体-運動のダンス
ダンス的な根拠として→
・そっちのほうが「活き活きしている」という感覚的・感性的な判断。
・日本的身体の系譜:「老い」=「成熟」。侘び寂び(歪な茶碗)。「舞踏」の身体(大野一雄の「老体」。土方巽の「病身」「不具」「撓められた身体」)
・そもそも、本来的にダンスという行為・欲望はすべからく「身体を本来の目的(生存・生活の円滑な遂行)やその為の正しい使用法に則って用いるのではなく、間違った使い方で「オモチャ」にする」ことではなかったか?
しかし、残念ながら当時ダンス業界ではかなりの反発(嫌悪)をくらった。
ほどなくして、演劇にも「流用」(チェルフィッチュ岡田利規など)。
演劇方面では一定程度、用語として流通。
そもそも、90年代の小劇場系演劇の俳優の身体(立ち方、発声)が、源流。(宮沢章夫松尾スズキ岩松了など。平田オリザ除く。)
ニブロールは小劇場の「オーソドックスな訓練を経ていない俳優」を「ダンサー」として起用した。
「60年代アメリカン・ポスト・モダンダンス=ジャドソン教会派とニブロールのコドモ身体的ダンスの関係」と同じことが「平田オリザ宮沢章夫松尾スズキそしてチェルフィッチュの演劇の身体との関係」にも言えるのではないか?
→普通・普遍的身体(ニュートラルな、標準的日常性)か、一人一人の身体の固有性・特殊性か。
その後、2000年代後半から急速に「コドモ身体」的(と桜井が言うところの)ダンスが消えていき、代わって「テクニック重視」の「オーソドックスな(保守的な、と桜井が見做すような)ダンス」が盛り返して今日に至る。
いっぽう演劇では、チェルフィッチュのスタイルが一つのデフォルト・基準となり、その更新・変形が広く目論まれている。(チェルフィッチュは欧州への進出を機に、主たる関心を身体から劇構造へシフトしたように見える。)

2. 2011年、3.11以降の演劇(?)における「発話」について

かつての「コドモ身体」論では、概ね俳優の立ち方、振る舞い方を(ダンスと同様に)考えていたが、演劇の身体とは、一義的には台詞の「発話」ではないか?
そこで、2011年、3.11以降に観た(聴いた)いくつかの演劇(広義の)の発話について考えてみる。
・高校生の演劇:飴屋法水『ブルーシート』https://www.youtube.com/watch?v=tDHnw8DTSn8
いわき総合高校の演劇専攻の生徒たち。演劇的スキルは乏しい=ヘタくそ。にもかかわらず、きわめて自然体の演技が成立していた。自分のことを語るリアリティ・強度。
・一般市民のぶっつけ本番の朗読:「F/T13オープニングイベント いとうせいこう宮沢章夫『光のない』(イエリネク作)」https://www.youtube.com/watch?v=5AQ7YrLeCIY
途中からマイクを観客に解放し、配布された『光のない』のテクストを次々と一般人(シロウト)が読み上げていく、という構成。彼ら彼女たちが訥々とつっかえながら読むのを聞くと、不思議なことに、あの恐ろしく難解なテクストが、「入ってくる」(頭に、というより心に?)のだった。それは、反原発(や集団的自衛権反対)のデモや集会の市民によるスピーチを思い出せた。「怒り」の言葉の強度・リアリティ。
・訓練された俳優による意図的な「吃音」:地点『ファッツァー』(ブレヒトhttps://www.youtube.com/watch?v=I__WNJl68xQ
ズタズタに分節化(分断)されたセンテンス・単語、そこから(再度)立ち上がってくる「意味」。通常の俳優の技巧的な発話は、抑揚により強調や感情の「機微」をもたらすと考えられるが、ここでは、言語の物質性(異物性)がほんの少し遅れて届く意味内容と合わさって、奇妙な「強度」をもたらすように思われる。

以上、3つの事例に共通して言えるのは、発話の非「流暢さ」のもたらす「リアリティ」という逆説的な事実である。
→2000年代の「コドモ身体」と同様に、「劣弱性」が表現として「強度」を獲得している。しかしながら、その意味するところは何だろうか?

Chim↑Pom 汗と涙と愛情あふれる(?)アクション経由のリアルな剰余

(初出:『スタジオボイス』2007年8月号 )

 小さなギャラリーに入るとすぐ目の前にはティファニーの1点もの宝飾品が飾られるようなガラスケース。その中には「リアル・ピカチュー」! つぶらな瞳(でも真っ赤っか)、黄色い地毛に茶色いカミナリ模様のメッシュ、もちろんシッポもカミナリ状。後ろ足で立って小躍りするようなポーズ、かわいい。不覚にも「萌え」てしまった。後から入って来た何人かの若い女子も口を揃えて「キャー、カワイイ!」。でもこれ、実は「ドブネズミ」なんですよね、ほら、股間には大きな金玉。センター街で捕まえて来て、プリーチして、剥製にしたんです。俺はそう聞いて完全に惚れた。「!‥‥‥」と女子。不潔で不逞な忌み嫌われるドブネズミの死骸、にもかかわらず目の前のそれのカワイさは歴然としてある。頭のなかでイメージと事実が股裂きになりさらにそれが混交・合体するのだった。
 20代のアート集団chim↑pomによるこの作品『スーパー☆ラット』、昨年末の展覧会後もいまだに方々で話題沸騰中だが、それにしても「センター街のドブネズミをピカチューに仕立てる!」って、まるでガキのイタズラ!じゃん(だいたいタイトルだって村上隆ネタのダジャレだし)。たしかに「アート」と呼ばれているもののなかには、もともと美しい昆虫で高貴な作品を作るとか、もとは可愛い動物を輪切りにしてグロい作品に仕立てるとかあるけど、それってただのフェチに過ぎないんじゃないの、それに対して「最低」の素材で「高級」というか「高好感度」なブツを作るこっちのほうが断然「アート=批評」性が高い、と思う。「資本主義社会の光と影」をクールに批評する的なシミュレーショニズム・アート? もちろん「ピカチュー=ネズミ」というコンセプト自体は単なる記号操作で、ぬくぬくと炬燵に入ってダベってる時にでも出てきた「思いつき」(ピカチューってさー、要はネズミだよね。)かもしれないが、実際問題、真冬の深夜にゴミの中を必死になって追いかけ回して捕獲して、冷凍保存、剥製作業をしないことには作品=イタズラに辿り着かなかったわけで、その汗と涙と愛情あふれる(?)「アクション」の記録ビデオを展示に組み込むことで、シニカルな記号の戯れからはみ出るリアルな剰余がもたらされたのだ。
 先頃、彼らは広島市現代美術館の公募展「Re-Act」で見事グランプリを獲得した。受賞作『サンキューセレブ、アイム・ボカン』はヴィトン(村上隆仕様)のバッグ&財布などセレブ用品とセレブの(?)等身大石膏像を爆破した残骸によるインスタレーションだが、これも、もとはセレブって素敵!というカワイイ一言に端を発し、セレブと言えばチャリティ、ボランティアね→カンボジアで地雷撤去とか?→除去した地雷ってきちんと処理しないと暴発するらしいよ→やっぱセレブは自己犠牲でしょ、というオチに達したわけだ(以上、会話を推測)。ここでも、素敵なセレブと悲惨な戦争を結びつけることを思いついたばっかりに、実際にカンボジア入りして押し掛けボランティアで地雷除去作業に携わり、地雷オタクのチームリーダーや地雷被害で手足のない子供たちとの心温まる交流までなしとげてしまう、それが彼らだ。
 さて、今回の個展は、マジ犯罪スレスレのイタズラあり、ダジャレ的作品(「ヴェネチア・ビエンナーレTDS」って一体…)ありの「オー・マイ・ゴッド!」(絶句)てんこ盛りらしいが、目玉となるのは自殺の名所、富士山の「樹海」をテーマにした作品だという。当然、一度迷ったら出て来れないという森の奥深くへ分け入りキャンプを張った。死ぬほど美しかったというその森で見たものは!? そして奇跡的に生還した彼らが持ち帰ったものは?! 掲載写真は比較的明るい小ネタの一つ(とはいえ、自殺現場の横で延々と木をくり抜いたのね!)だが、もっとディープでダークな衝撃の何かが待ち構えている由。怖いよ〜。

汗と涙と愛情あふれる(?)アクション経由のリアルな剰余
STUDIO VOICE』、INFASパブリケーションズ、2007年8月号

「子供の国のダンス」便り(5) オトナは「運動」がキライ!?

(初出:『舞台芸術』9号、2005年 「子供の国のダンス」便り は『舞台芸術』誌に連載のダンス時評。1〜4はココに掲載。)

S:前回は「時評」をお休みさせて頂き、木村覚さんに「コドモ身体」について色々とご意見を伺いました。おかげ様で「コドモ身体」論も少し大人に、じゃなかった成長‥‥しちゃうと大人ってことか(笑)、まあいいや。で、どうなの、最近のダンスは?
K:まずは、何と言っても「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」[1]問題でしょう。
S:落ちちゃったね、チェルフィッチュ。4月の岸田戯曲賞受賞に続いて二冠制覇したら痛快だったのになー。アンタ、某誌で競馬予想みたいなふざけたことしてたでしょう、チェルフィッチュ=大穴、とかって。
K:いや、だけど実際に蓋が開いて、8組の作品を比べてみれば、なおかつ本番の出来も考慮に入れてみれば、ブッチギリで一等なのはチェルフィッチュ[2]だって、歴然としてたよ。
S:で、結果としては、キミの予想では「ダークホース」だった人が受賞したわけだ。
K:隅地茉歩さん。これは唯一、未見の作品だったんで、データ不足ということで「ダークホース」としたわけだけど、本番のパフォーマンスもよくわかりませんでした。っていうか「見えない!」んだよ。すごく小さな動きで、ひょっとしたら繊細なダンスが展開されているのかもしれないけど、照明が極度に暗くて見えない。見えないものは評価不可能じゃん。俺は審査員の列のすぐ後ろの席だったんだよ。一体どういうことなの?
S:まあ、リコーダーの生演奏によるバロック音楽とか、その暗い照明にぼんやりと浮かび上がる大きなテーブルに並んで座った男と女、とか「雰囲気」はあるんだよな。でも、動きのディテールは見えなかったね。だから、結局その「雰囲気」と雰囲気作り=「演出」に対しての評価ってことになる。
K:でも、それは明らかに「振付」賞としておかしい!審査員長だってことあるごとに「これは作品賞じゃない、あくまでも振付を見る賞なんだ」って公言してたわけだから。そうそう、本選会の翌日に一次選考でもれた中から「でもちょっと捨てがたい」という人を審査員に見せるショーイングがあったのね。で、ちょうど僕の隣に座ってたイギリス人審査員の女性が、ほとんどダンス見てないで、ずっとメモを取ってんだよ。ちらっと見て(1秒)、すぐメモにかかる(9秒)。およそ90%の時間は下を向いてるわけ。これじゃあ、そこで何が起こったか、そこで何が持続していたか、いいダンス(振付)かどうか、わかるわけない。バカじゃないの? で、アワードの審査の時はどうであったか? メモ取ってないで、ちゃんと見ていたか? 誰か目撃者がいたら、お知らせください。つまり、あれだね、そいつはダンスを「運動」としてではなく、「絵」「図」「フォルム」「記号」としてしか見ていないわけだよ。それって、僕が『デザイン主義批判』とか『スティル/ムーヴィ』とか[3]、さんざん書いてきた問題なんだけどね。
S:でも、そういう見方をしている人はいまだに多そうだな。普段公演に行ってもこっちは当然ダンスしか見てないから気づかないわけだけど、結構ダンス批評家で客席でメモってる人いるみたいだよ。○○さんとか、さ。ま、仮にもダンスの専門家がそうだったっていう事実を、しかも目の当たりにしちゃったんで、ショックだったんでしょ、わかるよ。まあ、落ち込むよな、やっぱ。
K:うーん。今回のチェルフィッチュ評価に関しても、その動きが(既成の)ダンス的なボキャブラリーによるものではないから、ダンスに見えない、ダンスとは認められない、というジャンルをめぐる議論という話じゃなくて、結局、日頃からダンスを「運動」として見てないから、それがいかに精緻に「振付」られているか「見えない」っていう情けない話なのかも。
S:ヘタすると「テキトーに(即興で)ダラダラと身体を揺すってるだけじゃないか」とかね。そりゃあ、作品を一言で言うとすれば「ダラダラと身体を揺すっている」ってことになるけど、それはほとんどの時間よそ見しててもわかることで、ダラダラする身体の様態を追っていくことなど絶対しないんだろうな。まあ、実際の上演を見ないでテキストだけで賞を出した岸田賞ってのもアレだけど、我々の一般的な「演劇の見方」も身体をネグってる面がある。つまり、目の前に俳優の身体があるにもかかわらず、セリフ&ストーリー=意味内容だけを「聴き取る」という受容の仕方で事足りてしまう、と。
K:「肉体は哀し」ってね‥違うか(笑)。「ダメ身体」、「コドモ身体」に対する批判っていうのも、「振付」の良し悪し以前の問題なんだな。「運動」が見えてないんだから。単に、パッと見の「だらしなさ」、そして、もちろん「だらしなさ」という身体(存在?)の在り方に対する嫌悪・フォビアに過ぎないのかもしれない。「ハゲ・デブ・チビ、キモーい」「ホームレス、臭い、寄るな、っていうかオマエ死ね、害虫駆除してやる、ボコボコ」っていうような。ヤダねー。まあ、逆に、そういうオマエは結局ただの「ダメ専」じゃないか、やーいこの変態野郎!って言われかねないわけだけど。
S:とにかく、感性の問題にしちゃうとマズい、と。そういえば「人類は運動というものが嫌いなのだ」って、蓮実重彦も言ってたな。
K:『スポーツ批評宣言』[4]!けだし「名言」だね。蓮実先生は、映画をフィルムの「運動」として見ないで、テーマやストーリーや演技で見る、そういう見方とずっと闘ってこられたわけで、このことはダンスにおいてもまったく当てはまる問題でしょう。
S:トヨタの話に戻るけど、今回は他にも結構いい作品あったよね。
K:そうだよ。アワードの謳い文句「年齢、キャリア、ジャンルを問わず」というのが、今回ほど文字通りになったのは初めてじゃないかな。何で今年はそれが実現できたかといえば、単純にそういう人も応募するようになったからで、つまり、アートとか演劇とか他のジャンルの作家にとっても、ダンスというものが自分の表現のメディア、ツールとして意識にのぼるようになってきたってことかも。
S:それなのに、「これはダンスじゃない」とか「もう十分キャリアもあることだし、いまさら」っていうんじゃね。
K:黒沢美香とか岡田智代とかね。でも、実際のところは「年齢・キャリア問題」というより、やっぱり、ダンスを「運動」として見ないという問題だったと思うな。例えば、岡田さんのこの作品『るびぃ』を「メモりながらの片手間」で見たら「椅子を引きずりながらゆっくり歩き回る。椅子の上に上り、足元が不安定な状態でバランスとりながら揺れる。バランスが崩れて落ちる。片手に持った椅子が円を描くように自分を中心にしてゆっくり回る」って、ただこれだけってことになっちゃう。だけど、ほんとうはそこには、持続のなかの微細な移り変わり、グルーヴがしっかり存在している。
S:基本的にはいわゆる「ミニマリズム」のダンスってことだけど、なおかつそこに「情感」もある。なんて言うか「時間を見る」いや、彼女とともに我々が「時間を味わう」、そんな作品だったね。
K:だからさー、今どきのダンス専門家なんてのは、世の中には「ミニマリズム」というものが存在するということすら忘れちゃってるんじゃないか、すでに。その上、微細な「運動」も見ない、見えないってんじゃ、どうしようもないね。僕は最近はあんまり「至芸」とか、それを見抜く「見巧者」とか、眼の精度にかかわることは、あまり言いたくないんだけど、ちょっとヒド過ぎるんじゃないか、ダンスを見るプロの水準がそんなだとしたら。
S:それはもしかしたら、最近の欧米のダンス・シーンの状況っていうか、全体的な水準(の低下?)が関係してるのかもね。あんまり最近情報が入ってこないけど、なんとなく停滞ぎみのような感じはするよね。ひところと比べて。
K:こないだ、金森穣がプロデュースして、海外で活躍する日本人ダンサーを集めたガラ・コンサートがあったね[5]。で、まあジリ・キリアンとかオハッド・ナハリンとか、あとそれ系統の若い振付家の作品を踊ってけたど、ほんとにつまんなかったなー。まあ、ダンサーの水準が、結局バレエが基本のああいうものを踊るにはちょっと、っていう面もあって、でも皆さんネザーランド・ダンスシアターとか、それなりのカンパニーで活躍されてるわけで、あれが今の欧米のコンテンポラリー・ダンサーの水準(以上)ってことでしょう。俺なんかの目から見ると、やっぱ「ヘタ」だなーと、悪いけど。で、とにかく作品自体も面白くない。特に、若い振付家のものは、クリシェの使い回しというか、デジャヴュ感が強かった。平均してああいう状況だとしたら、完全に停滞してると言わざるをないな。ヨーロッパは。唯一、安藤洋子と新しいフォーサイスカンパニーのメンバーが踊ったの[6]だけは、面白かった。
S:ああ、あれは最高にくだらなかったなー。他の作品がどれもテイストが同じで、シックで硬質な、要するに「暗くて気取った」ものだった中で、バカ明るくハジけてた。しかも、ダンスとして新しい事もちゃんとやってるし。
K:構成・演出のクレジットが安藤洋子と日野晃となってるわけだけど、今年はじめに武道家の日野晃がフォーサイス・カンパニーに招かれて、日野メソッドによるコンタクトを教えて来たんだよね。ちょうど、フランクフルトに同行取材した押切伸一さんが書いた本[7]が出たところだけど。
S:もともと、フォーサイスは「インプロヴィゼーション・テクノロジー」ってことで、複数の身体が即興でダンスをジェネレートしていく探求をずっとやってたわけだけど、それは空間と他のダンサーの身体に「幾何学的」に自分の身体を関係付けていくという方法だった。日野さんの場合は、「feel&conect 」と言うように相手の身体と力を感じる、そのために身体的にもそして意識の上でも相手との「つながり」を維持し続ける、というもの。フォーサイスのは「視る→頭の中で高速演算→動く」、それに対して日野理論は「感じる→動く」となるので、データのロスやタイム・ラグ、処理結果の間違い(失敗)の確率が飛躍的に低くなるんじゃないかな。
K:世界を認識するに「視覚」だけに依存していたのが「知覚すべて」つまり「身体」で把握するようなる、ってことかな。さっきのダンスにおける「運動」を見れないって話も、それは「運動=ダンス」を視覚的にしか把握しようとしないからで、「運動=ダンス」は体感的な把握、「運動=ダンス」は見る者もとともに生きることでしか把握できない、ってことなんだね。
S:この方法のスゴさは、ダンサーどうしが実際につながっていない場合、離れて向かい合っている時にこそ発揮されるんですよ。対戦相手と「見合う」わけ。で、この場合はどうしても視覚情報に頼り勝ちになると思うんだけど、普段の稽古で常に相手と繋がっているでしょ、その時の身体の意識を延長させることによって、ほとんど身体的に相手を感じることが出来るようになるんじゃないか。と思うんだよ。
K:ああ、それ安藤作品にも出てきたね。いや、見合っている2人の間の空間に、ちゃんと線が見えたよ。あれは、すごいスリリングだったな。
S:とにかく、フォーサイス・カンパニーは今後継続して日野さんのワークショップを受けていくらしいから、その成果が今後出てくるだろう。すると、またしてもフォーサイスの独走状態が続くってことになるね。それ以外はみんなますます保守化していく、と。
K:それもこれも「人類は運動が嫌い」だから、ってか?
S:そういえば日野さんは元はドラマーだったんだよね。フリー・ジャズ。伝説の阿部薫のトリオ。
K:デタラメ、純粋運動の人なんだな、そもそもが。
S:そういえば、「ローザス」の、こないだのマイルスのはどう?ジャズの歴史的名盤、電子マイルスの第一弾『ビッチェズ・ブリュー』(69)で踊る!ってヤツ[8]。
K:うーん、微妙。これまでのローザスと比べたらちょっとはグルーヴ出てきたから、そういう意味では評価してもいいんだけど、逆に言えば、マイルスの音があんだけグルーヴィなのに、このダンスのグルーヴのなさはどういうこと?っていうのが本当のところだな。だから、インテリはダメなんだよ、って(笑)。もう、よせいばいいのに、調子こいて今度はコルトレーン『至上の愛』で踊るだと!
S:何で、ケースマイケルはジャズ・シリーズいきなり始めたのかね?
K:要するに「ジャズ=インプロヴィゼーション」ってことじゃないの。『ビッチェズ・ブリュー』に際しても、フランクフルト・バレエにいたダンサーに「インプロヴィゼーション・テクノロジー」教えてもらったりしたようだけど、遅いって(笑)。フォーサイスのほうがもうどんどん先に進もうとしている時にさ。あと、ファンキー・ダンスも習ったって。でも、実際、作品でそれ系をもっぱら踊ってたのはその教えた先生本人だったよ。「本気さ」っていうか「リスペクト」が感じられないね。
S:つまみ食い。まあ、何となくハイアートによるサブカル搾取っぽいな。文化的コロニアリズム
K:そこいくと、マリー・シュイナールは違うね。あの人は奇特な人ですよ。彼女もまた、欧米のダンス環境から出発して、かつては現代美術(パフォーマンス)的あるいはミニマリズム的なアプローチを模索したりもしたんだけど、世界中を放浪するなかで出会ったヨガやインド舞踊、バリ舞踊への傾倒によって、彼女独自のダンスを形成していったんだよね。
S:なんか、ルース・セント=デニス[9]みたいだな。文化人類学者の目線というより、リスペクトする者の態度ってことね。
K:しかも、それがただのコピーには終っていないわけ。こないだの来日公演[10]でやった『ショパンによる24の前奏曲』なんか、音楽とダンスが奇妙にミスマッチなマッチングでさ。
だいたい、「前奏曲集」って、ショパンの曲としても、イマイチ地味だし、あんまり好きじゃないんだよ、僕。子供の頃、ピアノ教室で弾かされたけど。だから、これ使ってこんなグルーヴィなダンスが可能とは思わなかった。
S:クラシックの名曲で同名のダンス作品を作る、というのは(モダニズムとしての)20世紀ダンスの「伝統」ではあるよね。ジョージ・バランシンからキリアン、ローザス(!)にいたるまでの。
K:たしかに。でも通常そこでは振付家による音楽の構造分析・注釈・批評が開陳されるわけでさ。ところがシュイナールの場合は、身震いし、身をよじり、ヘッド・バンキングし、拳を振りかざす‥‥、ショパンでだよ!
S:まあ、彼女の好きなアジアの舞踊の身体って、痙攣とか突っ張らかりとか捩りとか、そういう身体だわな。
K:でも、見え方としてはさ、我々がフツーの「ダンス・ミュージック」を聴いて踊り出す時のように、音楽に対して自然に身体が反応して勝手に動き始める、そんな感じなんだよ。それは何らかの「システム」に則って操作されることで成立する運動というより、音楽に共振する身体からこぼれ出す「震え」であり、身体のあらゆる部分が喜びにわなわなと震えている、そういうダンスなんだよ。だから、それは一瞬一瞬姿を変えるわけだけど、それが、しばしば「動物」の仕草に見える。前肢立ちしたネコやイヌの手つきとか、擦り合わされる首と肩、とか。
S:ま、そういうところにまたアジアの舞踊の身体が透けて見えるわけだけどね、ミミクリーとか。
K:だからー、音楽はショパンなんだってば!そういう奇怪なダンスがショパンの欧風浪漫な音楽にシンクロしてるんだよ。で、見てるこっちの身体もノリノリになっちゃうんだぜ、それってスゴくない?
S:たしかに、最近の欧米のコンテンポラリー・ダンスとしては珍しい作家であることはたしかだね。しかも、今引っ張りだこ状態らしいじゃない。フェスティバルとかでも。
K:でも、結局は「色モノ」って扱いなんじゃないの。どうしたって「主流」にはなり得ないでしょう。たまには珍味もいいかな、っていうさ(笑)。何であいつらはヤミツキにならないかなー。こんな旨いもん。今回上演されたもう一つの『コラール』なんか、クライマックスシーンでシュイナール流のケチャが展開されるんだけど、「ハッハッ、ハッハッ」というかけ声=呼気音がいつしかハイになった者のあの「ヘラヘラ笑い」に似てくるんだよ。で、見ているこっちも、ヘラヘラがこみ上げてくる。ってことは、ドーパミン出てるわけよ、マジで。あれ?そう言えば、最近も似たような感覚を体験したような。
あ、思い出した。黒田育世の振付を踊った金森穣とNoism。
S:ああ、こないだの。『ラストパイ』って、そんな作品だったの?
K:金森穣が、ごく単純な振りの繰り返しを延々40分、立ち位置キープで切れ目なく踊り続ける。金森君に人が期待するであろう「技巧を駆使した華麗なダンス」ではなく、持久走のようなストイック、というか要するに「地味」なダンスを踊らせるわけ。
S:ベジャールの「ボレロ」みたいな感じ?
K:いやいや、「ボレロ」なんてたかだか17分でしょ。こっちは40分だよ。体力的にも40分は尋常じゃないよ。金森君の判断で自分の体力ギリギリ=40分ということが決定したらしい。案の定、ネットの某スレにも「穣サマにあんなことさせるなんて、ヒド過ぎます!」的な書き込みされてたよ(笑)。この作品はもともと4月に初演された黒田のソロ『モニカモニカ』をベースにしていて、シンプルないくつかのフレーズの組み合わせで、とにかく自分を「踊り倒す」ということだけをコンセプトにしてるわけ。育世はこないだ岡山で90分も踊ったらしい。当然倒れるまで。まあ、「コドモ」はとんでもないこと考えつくよ、ホントに。
S:黒田育世なら「ああ、アイツはな」って感じだけど、欧米仕込みの正統派エリートダンサー金森を「体力を使い果たすまで、ぶっ倒れる(寸前)まで」追い込んだわけだ。天下の金森にこのタスクを課した黒田もアッパレ(してやったり!)だが、一瞬たりとも手を抜かず最後まで踊り切った金森もさすが、って感じ?
K:いやー、マジですごくカッコ良かったよ、穣クン。と言っても「スポ根」な感動なんかじゃなくてね。踊れば踊るほどに彼の身体は「マッチョ」から遠ざかっていく、中性的というより「フェミニン」な姿に変貌していった。このダンスは存在=身体の誇示ではなく消尽することが目指されている。くっきりと一つ一つのフォルムを刻み込むのではなく、一瞬一瞬の閃く残像が持続する「運動」(!)の流れのなかに融けていく。そういう身体が金森穣から出てきたんだよ、画期的じゃない?
S:金森以外のダンサーたちはどんなだったの?
K:あ、肝心なこと言い忘れてた。舞台下手のスポットの中でひとり黙々と踊る金森がいる、で、そことは一切交わる事なく、Noisimのダンサーたちが配されてるんだけど、そっちはそっちで、いわば「レイヴでハイになったバカ者たち」が奇声を上げつつ完璧にナンセンスな反復遊びにハマっていたりする(このあたりが、さっきのシュイナールの話とつながるんだけどさ)。これは、金森の没入する身体の「無為」と表裏の関係にある。この2つの無為はどちらもしつこい「反復」によって成立しているしね。つまり、金森的な没入状態というのもまた、レイヴのダンスにしばしば見られるじゃない。一人孤独に黙々と踊る、でもすごくエンジョイしてる、という。視られることなど意識する暇もなく、ただただ「踊る喜び」それ自体であるダンス。だから、この舞台にいたのは全員が「踊るバカ」「踊りバカ」ってことだよ。
S:バカは伝染する。で、それを見ている者たちもまたバカになり、客席で静かに熱く「踊っていた」のだった、って感じスか?
K:まさに、その通り!で、ドーパミンも出た、と。それはともかく、この公演はある意味「事件」だったんじゃないかな。金森と彼のカンパニ−Noismが、コンドルズの近藤良平とか黒田育世の振付で踊ったということがね。
S:なるほどね。その公演では三人の振付家に作品を委嘱したんだよね。近藤、黒田と、何故かアレシオ・シルベストリ[11」。
K:アレシオ君の作品だけ、バリバリの「ヨーロッパ、アート、スノビズム」でしたね、やはりというべきか。フォーサイス(90年代)、しかもパチもんの。
S:ははは。粗悪なコピー商品ね。見ないでも目に浮かぶよ。
K:金森作品のほうがはるかに品質もいいし、だいいちオリジナルだよ。まあ、カンパニーとしては、こういう系のもの出来ますよっていうのはひとつ売りとしてあるんだろうけどね。サンプルとして。とにかく、今回の眼目は「金森穣、日本のコンポラと出会う」ってことだから。
 で、近藤良平はさすがに手堅い職人仕事で、カンパニー・メンバー=「優等生」の「ハズし」「脱力」に成功していた。みんな、照れくさそうに、ちょっとぎこちなく(っていうのも変だけど)、でも明らかに楽しんで「コドモ身体」してたよ。でも、とにかく圧巻だったのは黒田育世の「ラストパイ」だったな。
S:そもそも、欧州で活躍した後帰国し、新潟の公立劇場りゅーとぴあの芸術監督に就任した金森穣こそは、90年代日本で果たされなかった欧米の正統的ダンスのホンモノの才能で、彼の登場によって、日本のダンス地図が大きく塗り替えられる可能性も出てきたわけだよね。ニブロール以降の「コドモ身体」「ダメ身体」から、国際標準に再度シフトするかもしれない、っていう。まあ、そうしたい「(抵抗)勢力」は潜在的に存在するわけだから。「コドモ身体」は恥ずかしい、っていう(笑)。
K:ところが、今、この場所ではとにもかくにも「コドモ身体」がだんだんと幅を利かせるようになってきている。金森が日本で活動していくということは、好むと好まざるにかかわらず、それらとの交通が不可避なわけですよ。とすれば、金森の変化がさらに新しい可能性をもたらすことになるのではないか、と。
S:フフフ。何か「いたいけなコドモに悪いこと教える大人」みたいな話だね。
K:でも、じつはその逆だけどね。せっかく立派な青年になって故郷に帰ってきたのに、ちっとも大人になれてない「元先輩」とかに付き合わされて、「バカ」やらされる羽目に的な(笑)。


[1]「トヨタ・コレオグラフィー・アワード2005」は一次選考によりノミネートされ、最終審査会「ネクステージ」(2005年7月9、10日 世田谷パブリックシアター)の舞台で作品を上演した。ファイナリストは以下の8名。
新舗美加(ほうほう堂)、岩渕多喜子(ダンスカンパニー・ルーデンス)、宇都宮智代ほか(yammy dance)岡田利規チェルフィッチュ)、岡田智代、黒沢美香、鈴木ユキオ(金魚×10)、隅地茉歩(ダンス・セレノグラフィカ)。
審査の結果、「次代を担う振付家」賞は隅地茉歩に決定した。なお、今年度の審査員は、天児牛大(審査員長)、バル・ボーン、塩谷陽子、鴻英良、ディアンヌ・ブッシュ。
[2]チェルフィッチュの上演作品『クーラー』は、2004年7月「We Love Dance フェスティヴァル」の委嘱により作られ、京都アートコンプレックスで初演。この連載でも取り上げている。「子供の国のダンス」便り──正しい「だらしなさ」について(『舞台芸術』7号)また、下記ページにも掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[3]『デザイン主義批判(序)』(初出:「ダンスの空間デザイン」(原題)『PT』7号 1999年4月 れんが書房)、『スティル/ムーヴィ』(2001年10月、ローマ第3大学におけるシンポジウム『Return to Hijikata』にて発表)。いずれも、筆者HP内、下記ULRに掲載。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[4] 蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(青土社 2004)
[5]金森穣 no-mad-ic project 2[-festival] 8月10日〜13日 めぐろパーシモンホール
[6]『3A』構成・演出:安藤洋子、日野晃 振付・出演:アンデル・ザバラ、シィリル・バルディ。
[7]日野晃・押切伸一ウィリアム・フォーサイス、日野晃に出会う』(白水社 2005)
[8]ローザス『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』彩の国さいたま芸術劇場 4月
[9]ルース・セント・デニス Ruth St.Denis (1877-1968) イサドラ・ダンカンと並ぶアメリカン・モダン・ダンスの先駆者。彼女も世界中を公演旅行し、必ずその地のダンスを一つ以上覚えてレパートリーに加えていった。というより、彼女のダンスじたい、インド舞踊を始めとした様々なオリエンタル・ダンスのエッセンスによって形作られた、と言える。
[10]カンパニー・マリー・シュイナール日本公演 3月 シアター・コクーン。上演作品『ショパンによる24の前奏曲』『コラール〜讃歌〜』
[11]Noism05 「Triple Bill」  三軒茶屋世田谷パブリックシアター
上演作品はアレッシオ・シルヴェストリン 『DOOR INDOOR』、黒田育世 『ラストパイ』、近藤良平 『犬的人生』

(初出:『舞台芸術』9号、2005年)

「決起」から「抵抗」へ(の撤退?)

 今回このプログラム「Hijikata Tatsumi /異言」においては、土方巽を結節点として60年代日本のアートを当時の緊迫した政治状況に対する応答として再考することになるはずだが、土方の創作活動において、その「暗黒舞踏様式」、こんにち人が「舞踏」として名指すであろうユニークなあのスタイルが形を成したのは、じつは70年代になってからだ。そして、それは、土方のダンス(のみならず、アート全般について)の「政治」から「美学」へのシフトとみなされている。なるほど、68年のいくつかの「決戦」の敗北を境に、学生を中心とした反体制運動=革命の機運は急速に萎み、それと同時に芸術表現全般からあからさまな政治性は失われていったようにも見える。
 そこで、今一度、68年の土方のダンスと72年の土方の舞踏を比べて見てみたい。まず、68年、まさに劇場の外で路上の闘争の激しさが増していくさなかに上演された『肉体の叛乱』と題された作品。それは、ストイックな鍛錬と断食によって鋭利に研がれた凶器のごとき身体が、溜め込まれた「力」が堰を切って溢れ出るに任せる、「決起」する革命の身体、というにふさわしい踊りであった。土方はこの舞台の後、4年間自ら踊ることをやめ「暗黒舞踏様式」を模索することになる。
 そして72年に大掛かりな連続公演が企画され、その中で「暗黒舞踏」が姿を顕わす。その白眉として名高いのが『疱瘡譚』である。よく知られる土方のソロ・シーンはタイトルが示す通り癩病者(ハンセン氏病患者)の「立てなくなった身体」のダンスである。地べたにへたりこんだ「足萎えの踊り」。わずか数年前68年の土方を鮮烈に記憶している者にしてみれば、あの「屹立し激した荒ぶる革命の身体」は、今や「腰が抜けたボロボロの敗北の身体」となり果てた、というふうに見えたかもしれない。しかし、実際はそうした否定的な評価を下すかわりに、そもそも健康な身体の十全な活動を誇示するものである「ダンス」という表現形態の「常態(ノーマル)」を逆さに志向するものとして、あるいはインターナショナルなモダニズムの身体ではなく繊細なアジア的な身体に潜在する微細かつ豊穣なミクロコスモス(インナースペース)の開示、といったような、要するに「美学」的な価値判断によって評価されてきたのだった。すなわち、政治から美学への退却、政治的敗北を美学によって忘却すること。批評家や観客が無意識に行ったのは、おそらくはそういうことだったのだろう。
 けれども、残された映像で見るその踊りからは、挫折感・無力感やルサンチマンの気配は感じられず、むしろ明るく清々しい。
そこで提案。これをリテラルに「もう歩くのはやめた、立つのもやめた、やめだやめだ。今から俺は梃子でも動かないと決めたのだ。」という、生産主義的な社会への「不服従」、「抵抗」の表明のダンスと見たらどうであろうか? そう、メルヴィルの『バートルビー』だ。上司からの命令を"I would prefer not to."という婉曲な言い方でことごとく拒否するバートルビー。彼はやがて会社で寝泊りを始め、鍵をかけて籠城するにいたる。「梃子でも動かない」という「抵抗」になす術のない雇い主は会社そのものの移転を余儀なくされる。物語の結末こそ悲惨だが、主人公の徹底した「何もしないこと」への忠実さは奇妙な爽快感を与える。そう、要するにこれは「職務放棄」の貫徹ということで、近年、労働運動における「抵抗」の寓意として取り上げられることになった小説なのだ。『疱瘡譚』における土方巽を、このバートルビーの振る舞いのようなものとして、つまり「決起」の挫折の後になお継続した、また別のかたちの「抵抗」とみなすことが出来ないだろうか?
 さて、ここで2015年に跳ぶ。 2011年の原発事故以降急速に広がりつつある、反原発、排外主義に対するカウンター、反安保法制といった社会的不正義に対する「運動」。それらの抗議行動における新たな「スタイル」としてしばしば、学生団体SEALDsの開発したすこぶるグルーヴィな「シュプレヒコール」が挙げられるが、もう一つ、「シットイン(座り込み)」という古典的な戦術の思いがけない復活がさまざまな闘争の場で見られた。例えば、排外主義者のデモ行進を阻むため、あるいは安保法案を強行裁決しようと国会へ向かう議員たちの車を阻むため、それはごく自然に起こった。仰向けに地面に寝そべる。脱力して身を投げ出す。警官がそれを引き剥がす。抵抗はしない。そのかわり引き起こされたらすぐさま前に出てまた寝そべる。いきり立ち拳を振り上げ屹立する身体とは真逆の、しかしそれはまぎれもなく「抵抗」の身体だ。
 では、日本社会にひさかた振りに訪れたこの「政治の季節」において、アートは、なかんずくパフォーマンスする身体はどうなっているか? というわけで、光州にてとくとその目でたしかめて頂きたいのだ。


(※ 『Our Masters 土方巽/異言』展示風景の動画をアップしました。僕がi-Phoneで撮影したものなので手ブレ等見づらい点はご了承ください。
https://www.youtube.com/channel/UCjO1DPq9VhnourBWt3tU0UA …)

「 トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979 」

 たとえば、2人が手をつないで扇状に斜めって歩行する(ちっとも前に進んでないよ!)、とか、ロープに吊られてビルの屋上から壁を直立歩行で降りてくる、あるいは部屋の四面の壁を歩き回る(F・アステア!)、あるいは、横向きで等間隔に並んだ6人が順次ステップを踏み始め、後ろの人に押されて前進する(アコーディオンの蛇腹ね)……、DVD『トリシャ・ブラウン初期作品集 1966-1979』に収められた彼女の初期作品は、冗談なのか?という「ダンス」ばかり。いや、それは間違いなく真面目な「メディウム・スペシフィックの探求(モダニズムのお約束)」なのだけれど、今どきのダンスには稀な「爽快感」「すがすがしさ」を感じさせる。「笑い」はその「開放感」により起こるのだろう、禅の「公案」のように。
 教科書的なおさらいをすれば、60年代、ブラウンらの参加した「ジャドソン・ダンスシアター」において、ダンスのファンダメンタルな問い直しがあった。まず、「抽象化」。ダンスとは、意味や感情を「表現」するものではなく、純粋な運動と素材としての身体である(そこには当然ケージ/カニングハムの影響がある)。そしてさらに、「選ばれた身体」による「ヴィルトージティ(超絶技巧)」の否定。それはつまり、「リベラル」な行為と「デモクラティック」な身体を!ということだろう。(※ 参考資料として、ジャドソンの盟友イヴォンヌ・レイナーによる、自らのダンスの方法を整理した「Torio Aの分析」からのチャートを挙げておこう→ http://d.hatena.ne.jp/sakuraikeisuke/20060501
 ところが、今日の評価は概ね、それらは既存のダンスに対する「反対のための反対」のためだけの「やせがまん」「スノビズム」で、「無味乾燥」な「実験」であった、だから結局、袋小路に陥って雲散霧消、その後ようやく正しいダンスの歴史が再開され「コンテンポラリーダンス」が花開きました、めでたし、ということになる。しかしこれは、現在時から見たいわば「コンテンポラリーダンス史観」と言うべき誤読で、現にこうしてDVD化されたブラウンの初期作品を見れば、そこには彼らが発見した「ふつうの身体、ささいな行為の見せる生き生きとした表情」が、正しく「ダンス」と呼ぶにふさわしいものであることが分かる。初期の代表作『アキュムレーション(蓄積)』(71)は、ヒッチハイカーのように親指を立てて手首を振るという小さな動作から始まり、反復の度に一個づつ動きと動かす部位が付け加えられ(蓄積!)、ダンスがさざ波のように全身に波及していく「こんなに簡単なことからこんなに複雑繊細なダンスが!? 」というソロ。あるいは『ウォーター・モーター』(78)。これもごく簡単な日常動作をサンプリング、よくシャッフルしてつなげる又は同時に行う、というソロ作品だが、その中には「よろける」とか、(何か忘れ物を思い出した時のように)「急に動作を中断して方向転換する」、(沸騰した薬缶を触った時のように「あちちち」と)「手先を振りながら同時に足を後ろに跳ね上げる」(靴先の泥を地面で拭き取るように)、といった文脈から切り取られているゆえに不可思議な仕草が多々含まれており、先が読めないスリリングなシークエンスが展開する。さらに映像の後半はそれをそのままスロー再生しただけのものだが、結果、採取された元の日常行為の原型=意味が完全に消え去り、かわりに、隠れていた奇妙なラインが浮かび上がるのだ。
 なるほど今の欧米のダンスシーンにおいて、こうした試みの継承は(フォーサイスを例外として)ほとんど見当たらない。が、一方で妙に既視感というか親しみを抱くのは、それが我々が最近目にする「日本のコンテンポラリーダンス」のあれこれ(ほうほう堂とか身体表現サークルあるいはボクデス…)に似ているからだ。ダンスの歴史や教育もないこの場所で、それゆえ既成の(スタンダードな)ダンス技術やメソッドを持たず、おのおのが勝手に「捏造」するということは、当然「ダンスの条件」を問う行為、「身体というメディアの抵抗」を確かめる作業にならざるを得ないのだから。
 さて、トリシャ・ブラウンの今は? 最近作『グルーヴ&カウンター・ムーヴ』(2000)では、かつての様々な原理的な試みの「蓄積」がすべて投入されているのが見て取れる。軽いバウンド&スキップ、気まぐれかつ唐突な方向転換=フェイント、身体のパーツ単位のねじり、ひねり等々。だが、それらの屈託のない身体・些細なことどもが、あたかも偶然に出会い、交差することで、驚くほどスリリングな光景が展開されるのだ。デイヴ・ダグラスのグルーヴィなスコアに乗って、全く力みのないリラックスした身体が、鼻歌まじりにチキンサンドを作るかのように踊る! それはすこぶるグルーヴィ(題名通りの「グルーヴィな対旋律」)であり、エレガントですらある。
(初出 2006年「 美術手帖」5月号)

【祝・タニノクロウ岸田戯曲賞受賞】 演劇の「純粋芸術化」万歳!——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

タニノクロウ氏岸田賞受賞を祝して2008年に「Revue House」2号に書いた文章を期間限定で掲載する。


演劇の「純粋芸術化」万歳!
——妄想の実体化としての庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」

 マンションの一室、文字通り「目と鼻の先」に設えられた舞台。幕が開くと舞台はグリム童話にでも出てきそうな18世紀ドイツの田舎風の家の一室だ。白い漆喰の壁、左右にドア、背面に窓。そして何故か2本の「樹」が一本は床から生え、もう一本は天井を突き破って下へ伸びている。しかし、このステージ、マンションの床から1メートルの高さに設営されていて、天井はもちろんマンションの天井なので、人が立って演じることができるギリギリの高さである。やがてこれまたドイツの農婦のような黒っぽい衣装の女2人が登場し、日常スケッチのようなものが描かれる。だが、その「日常」もまた奇妙なもので、どうやら女は部屋に生えた「樹」から採れる白い「樹液」を主食としており、舞台ではその樹液を採取し、意味の(判ら)ない会話を交わしながら食事を取り、あるいは上手側のほうの樹が乾いてしまい液が出なくなっていることを案じたり、というように劇は展開することなく進行していく。後半、しばしの暗転後、明かりがつくとそれまでの舞台「床下」があらわになるのだが、そこには学生服を来た男が仰向けになっている。そればかりか、彼が横たわっている床下の空間はきわめて精巧に作られた「ジオラマ」になっており、青い空と雲、山並みや川、湖、集落、そしてその回りを蒸気機関車が走っている。つまり、「絵」としてはガリバーの世界だ。学生服の男は、受験勉強中のごとき寝言を口にするので、彼はやはり受験生であることがはっきりする。目を覚ました受験生は、うたたね中に自分が知らない間に小人国のガリバーになっていることに“ちょっとだけ”驚く。しかし彼の関心事はほぼ受験に占められているようで、身動きも取れず、参考書も机もないにもかかわらず、なお勉強を続行しようとする。が、集中せんとする受験生の常で、女の子のことを妄想しはじめる。股間のあたりがどうもムズムズする、と見れば彼の股間は床上の「樹」と繋がっている。ミツコ!と女の子(どうやら妹らしい)の名前を叫びながら果てる受験生。ということは、「樹液」は即ち彼の...。この後、床上の世界と床下が繋がり、男は上に上がってきて受験勉強を続けようとし、女たちは彼に夜食(「樹液」)を供するなどしてもてなす場面が描かれたりするが、最後まで結局何だかよくわからないまま進行するので、以下割愛。

 私はこの舞台にただただ「魅了」された。いわば完全に「放置プレイ」のような状況に置かれながら、まったくもって意味不明の物語に、女のカジモドみたいな出っ歯(の作り物)や白い汁をすする音のえげつなさ、足を引きずるようにノロノロと歩き回る二人の女の愚鈍な「造作」に、とりわけ床下の精緻な「ジオラマ」に、驚きとともに魅了されてしまったのだ。
 これはタニノクロウという男の偏執的な創造物である。ただひたすら、彼が夢見る、欲望する事物を実際に実体化したもの、彼の頭の中にある妄想を物質化したものが並べられている。因果、整合性、論理性、バランスを欠いた寄せ集めの部分から成る奇形的な創造物。郵便屋シュバルの城、ババリアの狂王ルートヴィヒの城、あるいはミニチュアのドールハウスの類い。
 だがしかし、本当に驚くべきことは、これが「演劇」として提示されているということかもしれない。今どきこれほどまでに我々の現実(社会)と切れた、全くもって無意味、無価値な舞台は希有である。にもかかわらず、いやそれゆえに、私は奇妙な解放感を感じるのだ。作品のバッド・テイストに反して、これは本当に清々しい。
 ところで「演劇」って何だ? 世界の鏡/公共(討議、コミュニケーション)空間/祝祭空間(ページェント)/慰安空間(エンタテインメント)等々? ギリシャ劇以来の(?)演劇の歴史をごく表面的に眺めてみても、どうも「演劇」というものは、社会の要請に答えることで成立するもののようだ。平たく言えば、社会の中にあって、社会的役割を果たすことを常に求められるという宿命?
 ところが、残念なことにペニノの『苛々する大人の絵本』という「演劇」(?)は、はっきりと何の役にも立たない。心身の疲れをひと時緩和してくれるサプリメントですらない。劇評家も、いつものように何か意義深いこと、気の利いたことを語ろうにも「とっかかり」を掴めない、なぜなら、そこには「現実」の反映が見当たらないからだ(註1)、ざまー見ろ、だ。
 ならば、ペニノは本来「演劇」とは呼べないということになるのだろうか?
 少し視点を変えよう。「演劇」を「形式」として見るならば、それは「俳優」の「演技」によって「出来事」が「物語」られる、すなわち「上演」というかたちの何か、ということになるだろうか。『苛々する大人の絵本』も、この形式を外れるものではない。しかし、「通常」の演劇はこの形式に則り、作者の意図する何らかの目的(さらには、前述したようなあれこれの「演劇が要請されているとされる役割」)を達成するために、演技の質を吟味し、物語の展開に腐心するだろう。そうしないと、例えば目の前で展開される悲恋のドラマが「嘘臭い」ものになったり(そんな理由で死ぬとかありえなさ過ぎー!)、この子は「コギャルのユミ」のはずなのにコギャル「らしさ」を保持出来ない(いつの時代の女学生?)、という事態に陥るからだ。いわゆる「表象代理、再現前 representation」というのは、要はそういうことだ。
 ところが、ペニノの「演技」はというと、今どきちょっとどうかというくらい「臭い芝居」だし、プロットは「支離滅裂」「デタラメ」である。にもかかわらず舞台が成立しているということは一体? 
 先に書いたように、ここで行われていることはタニノの頭の中のイメージ(妄想)の「実体化」である。しかるに、妄想(想像)の「実体化(actualisation)」は「表象代理、再現前 representation」 とは違うものなのではないか。representationは劇の外側にある(我々の生きる世界の)「現実」を参照し模倣するが、ペニノの場合、参照すべきものが元から「イメージ」であり、それは「現実」に存在しない(参照すべき「オリジナル」が実在しない)のだ。だから必然的に、その「演技」や「物語」には「らしく」ということの必要がないわけだ。
 だが、逆に、観る者に「それがそうある」がままに受け取られる必要がある。そこに何らかの「寓意」や「解釈」を読み込む隙間ができるやいないや、その世界は外部の「現実」に通底する何か(外部=現実の単なる反映)に失墜してしまう。だからこそ、プロットはデタラメでなければいけないのだし、俳優は愚鈍に振舞うのだ。
 さらに決定的な要素はその空間造形の特異な在り方だ。通常の演劇の舞台美術(セノグラフィー)は、やはりこれまた「現実」の代理物であり、リアルさ(本物らしさ)や象徴としての適確さなどが求められる。いっぽうペニノの、マンションの一室の中に作られた「天井が極端に低い部屋」や、横たわる男のまわりにこしらえられた「ジオラマ」といった造形は、タニノの頭の中にある通りに実体化された「実物」なのである。つまり、ジオラマジオラマであり、そこに走る汽車は「ジオラマの中を走る“本物の”鉄道模型」に他ならない。そう、「舞台美術」と、たとえばこの「ジオラマ」との違いはrepresentation とactualisation と同じような意味で異なっているのだ(註2)。舞台美術はたとえ書割であろうとも、縮尺比は(見かけ上)実寸でなければ用をなさない。ところがジオラマは現実(どこかにある自然の景観)と1:1の対応関係を持たない(註3)。
 あるいは、他のペニノ作品にしばしば出演する「小さい人」マメ山田タニノクロウにとって彼の存在は、いわば、脳内の妄想イメージの「先取りされた実体化」なのだろう。タニノ的には、自分の想像物(であるはずのものが)が既に存在していた!という感じだろうか。私はずいぶん前に「世界一小さいマジシャン・マメ山田」と名乗る彼のマジックを見たことがある。それがまた、5回のうち4回は失敗する、という何ともなシロモノであった。「小さな人が失敗するばかりの手品を見せられる」というのは、既にして「ペニノ」的映像ではないか。(註4)
 かくして、「演技」や俳優の「存在」、舞台の空間「造形」、これら全てが、通常の演劇作品の成り立ち方とは異なり、「現実」が投影された世界、「現実」の再現(再現前 representation)ではなく、実在しないイメージの「実体化 actalisation」を図るために、「現実」をシャットアウトするように機能することによって成立しているのが『苛々する大人の絵本』ということになる。そしてそこでは、通常の演劇の「現実→虚構(上演=再現)」に対して「妄想(非現実)→実体化(実演!)」というように、前後関係のベクトルが逆になっている。本末転倒、倒立した「演劇」?
うーむ。
おずおずと「芸術」という言葉を口にしてみる。「芸術」? そう「芸術」だな。外部に参照項を一切もたないで成立している、それこそ「純粋芸術」ってことじゃないか(笑)。OK、「ペニノは芸術」ってことで決まり!「マスターピース」と言うにはそうとう歪んでいるが。今日この場所の演劇、ペニノの立ち位置であろう「小劇場演劇」では、「この場所の<リアル>を切り取れ」「ニート問題を扱え」「9.11以後の世界情勢を読み込め」とか「実験的であれ」「新奇であれ」「来る10年代を先取りせよ」等々、目白押しの注文いや「圧力」に応答するのに汲々としているかに見える(「圧力」が一番低いように見える「エンタメ」系にしても、「癒して」「泣かせろ」とか「ウォームハートな“ちょっといい話”にしてね」とか言いやがる)。とにもかくにも「役に立て」という圧力。何とも五月蝿いことよ(5)。形而下のことは家来に任せておけ、「現実 リアル」? そんなものは犬にでも食わせろ、芸術万歳! (註5)

(初出:『Revue House』第2号 2008年)


【脚註】

(1)このわけのわからない「物語」を、例えば精神分析的に「解釈」することは出来るだろうが、それをしたところで、そこから得られるものは、思春期の受験生の性欲やプレッシャーといった「しょーもない」ことでしかないだろう。

(2)ジオラマはたしかにもともとは「現実」(自然の景観)を参照先としていたとも言えるが、この舞台に設置されたジオラマは「レディ・メイド」と考えるべきではないだろうか。元の「文脈」(社会に要請され世の中に存在するジオラマ一般が本来持つ用途)を奪われ、無意味にそこに「ただある」ジオラマ、それは「俺、ジオラマですけど何か?」と呟いているようだ。あるいは、ラストシーンでごちそうとして(?)銀の皿に載せられたシカの頭が登場するが、それはあからさまにどこかの家の応接間から持って来た「シカの頭の剥製」である。「シカの頭の丸焼き」の「代理物representation」ではない、ということだ。

(3)この世界(作品)が強度をもつには、舞台空間やモノのサイズ、さらには観客との「距離」が重要となる、このことに関して「傍証」として挙げておきたいのが、2004年に西新宿の空き地で上演されたペニノの『黒いOL』だ。その舞台空間は地下坑道(驚異の地底人国のOLの職場?)で、やはり尋常ならざる熱意とエネルギーによって見事に作り上げられたのだが、地面を掘削しコンクリートで固められたその洞窟は、「原寸大」の(ゆえに)(単に大掛かりな)「舞台美術」として機能してしまったのだ。たしかに「舞台美術」としては破格の造作物と言えるが、やはりそれは「舞台美術」でしかない。そして観客は洞窟の手前から、相当に奥のほうまで伸びた舞台で行われるあれこれを「遠くから」鑑賞することになる。実際の距離は心理的距離でもある(実を言えば、さほどの距離と言うわけではないのだが、心理的には普通の演劇の上演される大劇場の最後部の席のように、「遠く」感じられた)。観客の態度は一歩退いた場所からの理性的な観察にならざるを得ない。かくして、『黒いOL』における観客は、まさに『苛々する』の真逆、「実物大」の「舞台美術」(≠ジオラマ等の「実物」)と「距離」の存在により、その(今思い返せば)相当に奇妙な物語にも没入(強制的な鑑賞)ができない、どうにも気が散り、せっかくのタニノの「世界」を享受できない状態に留め置かれるのだった。

(4)ところが、じつは、それらの舞台は『苛々する』と異なり、一見「普通の演劇」のような体裁を持っており、するとマメ山田は、たとえば「ペーソス溢れるホームドラマ」に何故か闖入してしまった(何らの必然性なく存在する)異物ということになる。彼(だけ)は「本物」の「小さい人」なので、作品世界全体の「寸法」、representation のレベルの整合性が狂ってしまうのだ。それでも、彼の放つ異物感が形成する磁場のようなものが、舞台全体を浸食し、歪ませ、その「失敗した(?)リアリズム演劇」状の劇空間を奇妙だがどうにも魅力的な「珍味」にすることに成功していることは確かなのだが。
 逆に、「苛々する」にマメ山田が出演していないのは、おかしい(もったいない)ように思えるが、よく考えると当然のことかもしれない。彼を起用した場合、他の人物、すくなくとも床上の女二人も「小さい人」でなければ、実際に行われた上演と同等の、あるいはそれを上回る成功は望めないだろう。それ以前に、現実問題として、ちょっと無理そうだ。

(5)どう見ても「ごくつぶし」なというか「下流」の臭いがプンプンする役者(?)たちの「こりゃダメだ」な「腐れ演技」で、「ジャンキー」の見ている「幻覚」の風景(目の前に「実体化」しているイメージ!)のようにナンセンス&シュルレアルな、しかも「オチ」があるとかないとか言う暇もなく瞬時に終わってしまうコントを速射(一舞台に40本!)する鉄割アルバトロスケットもまた「演劇」というにはあまりにも「役立たず」である。
 あるいは、任意の無駄話(無意味な台詞)をサンプリングして構成されたチェルフィッチュ岡田利規)の『クーラー』や、意味内容がすべて吹き飛んでしまう程に超スピードで台詞が飛び交う矢内原美邦の『五人姉妹』は、『苛々する大人の絵本』とはまた別の方法で演劇を「純粋芸術」化することに成功している数少ない作品だ。そこでは、ストーリーを追うことや、台詞の逐一を聞き漏らすまいと神経を使うことを免除されることにより、極言すると、観客はそこに生起する「グルーヴ」に身を任せているだけでOKという、音楽やダンスの特権とされる受容が成立していた。実は『クーラー』に関して、岡田自身は「ダンス」作品と定義しているのだが、最近の岡田演劇の方法の変化を見ると、こうした方向性に向かっているようにも思われるのだ。チェルフィッチュは一時「格差社会を批評するニート演劇」といった語られ方をされたりもしたが、もちろん岡田演劇の本質は最初からそのような皮相なものではない。ただ、そうした「読み」を誘発せざるを得ないのが、演劇の社会的立場、ということは確かだろう。
 現実の「劣化コピー」としての表象によって単なる現実の追認をしているような演劇も、観客(と批評)の「そういうこと、あるよね!」「こういうヤツっているいる!」「だよね、共感!」に支えられて成立してしまう。とりわけ、「露悪」的な過激さをもって「リアル」を標榜する(「この現実を見よ!」)類の演劇など、現実社会の“「現実」への逃避”(大澤真幸)という現象の、そのまた代理ー表象なのだが、それだけに批評にとっては相当に重宝な「おいしいネタ」ということに相成るわけだ。ホント、「世間」ってヤツは.......。

『赤レンガダンスクロッシング for Ko Murobushi』

2016年2月20,21『赤レンガダンスクロッシング for Ko Murobushi』@赤レンガ倉庫

SideA
スガダイロー(ピアノ)× ucnv(映像)× パードン木村(DubMix) (20日)/空間現代 × ucnv(21日)
岡田利規
core of bells
捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子
<休憩>
Side B
呑むズ(美川俊治、HIKO、大谷能生)×伊東篤宏(20日)/山川冬樹×JUBE×大谷能生(21日)
川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ
飴屋法水


キュレーション:桜井圭介+大谷能生




岡田利規クワイエット、コンフォート(仮)』
作・出演:岡田利規
映像:須藤崇規
協力:プリコグ



core of bells 『遊戯の終わり』

core of bellsは、近年、あらゆる表現の形式から実人生までも纏め上げるつまみ食い的な制作に磨きをかけながら、観客と共に過ごす時間についての思索を巡らせて来ました。その思索はかたちを変え時代も空間も越えながら蝶のようにひらひらと舞い、僕たちを翻弄します。それでも、しぶとく追い続け、舞い降りたところをつまみあげました。その間にも時間は刻一刻と過ぎ去って行くのです。最新作です。

出演:大塚美保子/徳原彩音伊藤真希子/久保田翠(20日)/田上望(20日)/水島ゆめ(21日)/小林絵美子(21日のみ)
脚本・演出:core of bells


捩子ぴじん×安野太郎×志賀理江子

3/14 thu. 
Painted Bride Art Center -初日。小屋入り前、タクシーを飛ばして、Phiradelphia Museumへ。デュシャンのコレクション。遺作の「沈黙」と「ノイズ」の絶妙の混ざり合い・・・幸せな気分で3回も覗いてた。「独身者の花嫁」のガラスは見事にヒビ割れていた!(これは今夜の自分の踊りに確実に共鳴。)
(JCDN日米振付家交換レジデンシープロジェクト 日誌から by室伏鴻
先月、フィラデルフィア美術館でデュシャンの“大ガラス”を、ムター博物館で石鹸化した人体を見た。“大ガラス”のヒビと、死体=DEAD BODYと、室伏鴻の記憶が響きあっている。(捩子ぴじん)

ダンス:捩子ぴじん
ゾンビ音楽:安野太郎
粉:志賀理江子
衣装協力:藤谷香子(FAIFAI)



川口隆夫と大橋可也と岩渕貞太と吉田隆一&吉田アミ

室伏さんに会ったことはない。作品は桜井さんが企画していた吾妻橋で一度だけ観たきりだ。わたしが最初に「知った」のはおわかれの会のときのことで、わたしはなぜか、その場に居て、いや、なぜか、ではなく、一緒に作品をよく作っている大谷能生さんが、そういうしめっぽいお別れの会とか行きたくないんだけど的なことを言ったのですが、なぜか、そのときのわたしは、なぜか、強く、一緒に行こうよと誘った。そのなぜかはなんなのかいまでもわからないけれど、なぜか強く思って、そういう行動をとった。草月ホールでみたものはわたしの記憶に強く残り、出合える機会はいくらでもあったのに、出合えなかったことについて、ひどく考え込んだ。その日、渡辺さんはなんどもなんどもワインを運んでいて、わたしは少し飲み過ぎた。あのときの、彼女の言葉は、いまでも、すべて、憶えている。

身体をつかった表現はいくら記録しても、再生できない。ひとびとの記憶の中にしか、残らない。それはそのひとそれぞれのものであり、同じ記憶を辿ることはできない。わたしだけのものにできる。

その日、桜井さんに会い、室伏さんのことを話しはじめた、大谷さんは目の前で慟哭し、泣き崩れた。大の大人が慟哭する瞬間を見たのは二度目であったが、それでもその姿に反射的に胸を打たれ、わたしが死んだらこの人はこんなふうに泣くのだろうかと、意地悪な気持ちが芽生えた。だから、わたしはそれをひとごとのように見ていたけれど、わたしは使役の役割をはたしたのだと、少し誇らしげだ。プロスペローの慟哭をシェイクスピアは書かなかったがわたしは知っている。

わたしはその場にいるのにいないような気がしていて、いまも同じようにこうして、すこし離れた場所で輪の中に加われない。知っているもの、知らないものと分け隔てられているのだろうか。生きているもの、死んでいるものと分け隔てられるように。その壁は外され、外へと向けられればいい。

今回の、この、はなしがきたときに、わたしが断らなかった。知らないのなら、関わるな。ぐるぐるとしながら、きっとどこかで、誰かを誘うための口実を、わたしは探っていたのだ。そのきっかけを与えてくれたのだろうか。パーティは終わってしまうし、そのパーティーにわたしは関われない。それでも、いいの?
とわたしは問いかける。

居ない人を強く思う。不在がこの作品のテーマだ。わたしは、亡くなったともだちや家族やこのあと出合えたかもしれない誰かのことを憶いながら誰もいなくなった赤レンガにいま、いる。

あなたがいる世界も、あなたがいない世界も両方わたしは知っている。

作・演出 吉田アミ(吉は土口)
音楽・吉田隆一、吉田アミ
出演 岩渕貞太、川口隆夫、大橋可也

室伏さん、機会を与えてくださって、感謝しています。


飴屋法水 スタンダップエッセイ「メキシコ」
出演:飴屋法水
映像制作:池田野歩
アシスト:西島亜紀、コロスケ.